軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第89話 先に話しておきましょう

例外適用申請書という名の、たいへん不親切な紙は、翌日の審議で早くも嫌われ始めていた。

王都側の役人は、その写しを見るたびに目を細める。神殿側の使者は微笑みを崩さないが、指先だけは紙の中央へ触れようとしない。高位家の代理人は「実務上の負担が増えますな」と穏やかに言ったが、その声には、砂を噛んだような硬さが混じっていた。

セレフィーナは、その反応を見て、少しだけ満足した。

使う前から嫌がられる紙は、だいたいよく効く。

常設化審議は、午前の議題を終え、短い休憩に入っていた。審議室の隣にある控えの間では、茶器の音が小さく鳴り、関係者たちがいくつかの輪に分かれている。

そこで、柔らかな声が滑り込んできた。

「表へ出す前に、先に少し話しておきましょう」

セレフィーナの指が、茶碗の取っ手に触れたまま止まった。

声の主は、王都側の調整役を務める婦人だった。薄紫のドレス。控えめな笑み。声量まで礼儀正しい。隣には、地方神殿の若い助祭と、王都側の進行補佐がいる。

話題は、次に予定されている小規模な奉仕茶会だった。

地方神殿の付属慈善院を訪れ、王都と地方の若い令嬢たちが、茶会形式で奉仕と交流を行う。資料上は軽い案件として扱われている。試験運用にも向いている、と添え書きまでされていた。

「案内補助には、エリアナ様がよろしいのでは。柔らかい方ですし、子どもたちも安心しますわ」

「祝辞補助までは大げさでも、最初のお声がけくらいなら」

「正式な依頼ではありませんもの。ご家族のお考えを先に伺うだけですわ」

短い言葉が、ひとつずつ置かれていく。

案内補助。

最初のお声がけ。

ご家族のお考え。

先に。

軽い言葉ばかりなのに、床へ落ちるたび、音もなく積もっていく。

窓辺にいたエリアナ・ベルク子爵令嬢が、ふとこちらを見た。

大きすぎない家の令嬢で、控えめで、笑顔が柔らかい。誰かに話しかけられれば丁寧に頷き、場の空気を乱さない返事をする。

婦人たちの視線が、細い糸のようにエリアナの周囲へ集まっていく。

向いている。

安心する。

最初のお声がけくらいなら。

誰も声を荒げていない。むしろ、慈悲深い顔をしている。その静けさの中で、エリアナの退路だけが少しずつ細くなっていく。

「いきなりご本人へ打診して、驚かせてしまってはお気の毒ですし」

「ええ。表で急にお名前が出るより、先に整えておく方が安心でしょう」

エリアナが笑った。

反射のような笑顔だった。

けれど、唇が上がる直前、喉元が小さく動いた。息を飲み、顔へ笑みを貼りつけるまでの、ごくわずかな遅れ。薄い砂糖衣の下で、唇の端だけが強張っている。

ミレイアの指が、控えの紙を握り込んだ。

胃の奥が、冷たくなる。

フィオナが鏡の前で笑おうとしていた時の、あの息苦しさがよみがえる。背中に載せられた見えない荷物を、落としてはいけないと思い込んだ人の顔。

エリアナの背にも、まだ名前のない荷物が載り始めている。

「ご本人のためにも、先に周囲で整えておいた方がよろしいでしょう」

地方神殿の助祭が、穏やかに言った。

ミレイアの手が止まる。

セレフィーナも資料から顔を上げた。

本人のため。

その言葉は、昨日から何度も聞いている。神殿儀礼でも、高位家案件でも、例外適用申請書へ赤を入れたばかりの場所でも。

本人のためという言葉が出るたび、本人の椅子だけが空いている。

ミレイアが一歩だけ前へ出た。

「そのお話は、エリアナ様ご本人には、もう届いているのですか」

穏やかな輪が、そこで凍った。

茶器の触れ合う音だけが、やけに大きく聞こえる。

婦人は、少し驚いたように瞬きをした。だがすぐに、優しい笑みに戻る。

「まだ正式なお話ではありませんから」

王都側の進行補佐も頷いた。

「そうです。正式にお伝えする前に、周囲で少し確認を」

「本人へ届いていない話で、家や周囲の意向を先に探るのですか」

ミレイアの声は荒くない。

けれど、その一言は、磨かれた硝子へ細い刃を当てるように響いた。

婦人の扇が、途中で止まる。

「探る、というほどではございませんわ。あくまで、ご本人に負担をかけないための」

「負担があると判断するのは、誰ですか」

空気が、ぴきりと鳴った。

助祭の笑みが薄くなる。進行補佐は、手元の茶器へ視線を落とした。婦人の扇は、閉じることも開くこともできず、指の間で止まっている。

ミレイアは、それ以上声を荒げなかった。

ただ、エリアナを見た。

エリアナは、こちらを見ていた。自分の名が会話の中心に置かれたことを、もう理解している。その顔には、場を乱さないための笑みが、まだ乗りきらずに残っていた。

ミレイアは、セレフィーナへ視線を送る。

切る場所は、ここではない。

ここで相手を責めれば、彼女たちは「誤解です」と逃げる。別の部屋で、別の言葉に着替えて、同じことをもう一度する。

なら、逃げる前に足跡を取る。

セレフィーナは、もう細い赤ペンを手にしていた。

資料の余白へ、短く書く。

【本人確認前の内々調整】

婦人たちの視線が、赤い文字へ落ちた。

セレフィーナは続けて、冷たく項目を刻んでいく。

【発言者】

赤いインクが紙へ沈む。

【同意者】

助祭の指が、茶器の取っ手から離れた。

【対象者不在の理由】

進行補佐の喉が、小さく動く。

【包囲網の到達度】

ノアが、横から資料を覗き込んだ。

「裏帳簿をめくっている気分ですね」

「似たようなものかしら」

「帳簿に載せる前なら、まだ動かしていないと言い張れる。そういう金ほど、あとで必ず臭います」

「なら、最初から帳簿に載せるだけよ」

「親切な会話に帳簿ですか」

「親切なら、残っても困らないでしょう」

ノアは、薄く目を細めた。

「監査が入った時、最初に汗をかく欄ですね」

セレフィーナは、さらに細い線を引く。

【内々調整記録欄】

その文字を書いた瞬間、婦人の笑みがはっきり硬くなった。

「もちろん、正式には後ほど」

「ええ、まずはご家族へ」

「ご本人には、負担にならない形で」

関係者たちの声は、まだどこまでも親切だった。

その親切な声の下で、セレフィーナのペン先が紙を削る。

がり、と小さな音がした。

ミレイアは、セレフィーナの隣へ戻り、低く言った。

「今の言葉、覚えておいた方がいいです」

「ええ」

セレフィーナは、乾く前の赤字を見下ろした。

「とても親切な声をしていたもの」

窓辺で、エリアナが婦人へ向けて浅く会釈する。

セレフィーナの羽ペンが、最後の枠線を引いた。

かちり、と罠の骨組みが閉じるような音が、紙の上でした。