作品タイトル不明
第90話 言わないまま決める人たち
奉仕茶会の紹介文案は、まだ正式資料の束には入っていなかった。
けれど、控え室の端に置かれた小卓の上で、それはもう数枚に写されていた。薄い紙。細い罫線。右上には、逃げ道のように小さく「仮」と書かれている。
ミレイアは、その一枚を手に取った。
奉仕茶会 案内補助紹介文案。
その下に、エリアナ・ベルク子爵令嬢の名前がある。
本人確認欄は、白い。
なのに、紹介文だけは滑らかに整っていた。
柔らかな笑顔で子どもたちに安心を与える、穏やかな令嬢。
王都と地方を和やかにつなぐ、奉仕茶会にふさわしい案内役。
紙の上のエリアナは、もう役に立っていた。
「まだ仮の案ですわ」
王都側の調整役の婦人が、すぐ横から声をかけてきた。昨日と同じ、角のない声だった。
「ご本人へ負担をかけないよう、先に言葉を整えているだけですの。正式な確認はもちろん後ほど」
「関係者間で、表現だけ見ておきたいのです」
進行補佐が続ける。
「いざお伝えする時に、失礼な紹介文になっては困りますから」
失礼。
ミレイアは、紙の上の「柔らかな笑顔」という言葉を見つめた。
本人がまだ選んでいない役を、先に綺麗な言葉で包んでおく。
その方が、よほど失礼だ。
「この紹介文を、エリアナ様はご覧になりましたか」
ミレイアが尋ねると、婦人は少しだけ扇を持ち直した。
「まだですわ。仮の案をお見せして、かえってお気を遣わせては」
「では、本人確認欄が空白のまま、紹介文だけ先に回っているのですね」
「回っているというほどでは。確認だけですもの」
確認だけ。
その言葉は、昨日セレフィーナが赤で囲んだ「内々調整」によく似た匂いがした。
ミレイアは紹介文案をそっと戻した。
「少し、席を外します」
「ミレイア様?」
「本人に確認してまいります」
婦人の笑みが、ほんの一瞬止まった。
「ですが、まだ正式なお話では」
「ですから、正式になる前に伺います」
ミレイアはそれだけ言って、小卓を離れた。
廊下へ出る足が、いつもより速くなる。
手の中には、紹介文案の紙の感触がまだ残っていた。薄くて軽いはずなのに、指先に嫌な重みがこびりついている。
エリアナは、中庭に面した窓辺にいた。
手には小さな刺繍入りの手巾を持ち、窓の外を見ている。誰かに話しかけられた時のために、顔だけが先に整えられているようだった。
「エリアナ様」
ミレイアが声をかけると、エリアナは肩を小さく跳ねさせた。
振り向いた顔に、すぐ笑みが浮かぶ。
けれど、その笑みは一拍遅れた。
「ミレイア様。どうかなさいましたか」
「奉仕茶会の件で、少しだけ伺ってもよろしいですか」
エリアナのまつげが揺れた。
「あ……はい。たぶん、そのお話ですよね」
たぶん。
正式に聞いていない人間の口から出るには、ひどく重い言葉だった。
「もう、お返事をされたのですか」
「いえ。まだ、正式には何も」
手巾の端が、ぎゅっとねじれる。
「けれど……」
そこから先は、言葉にならなかった。
指の関節が白くなるまで、手巾が絞り上げられている。
ミレイアは、エリアナの目をまっすぐ見た。
「違います」
短い言葉だった。
エリアナの表情が止まる。
「嫌ではないことと、選んだことは違います」
エリアナの喉が、小さく動いた。
笑顔がほどける。唇が本来の位置へ戻り、少しだけ呼吸が深くなった。
「……考える時間がほしいです」
それだけ言うのに、彼女はずいぶん息を使ったようだった。
ミレイアは小さく頷いた。
「分かりました」
控えの間へ戻る前に、ミレイアはセレフィーナを探した。
セレフィーナは、臨時に置かれた小机の前で、別の資料に赤を入れている。ノアは隣で、使い終わった書類を乾いた手つきで仕分けていた。
「セレフィーナ様」
「どうだった?」
セレフィーナは、顔を上げる前に聞いた。
「エリアナ様は、考える時間を望んでいます。紹介文を先に回す段階ではありません」
セレフィーナは、そこでようやく顔を上げた。
「なら、あなたが止めてきなさい」
ミレイアは一瞬、息を止めた。
「私が、ですか」
「ええ」
セレフィーナは細い確認用の差し込み紙を一枚、ミレイアへ渡した。
「あなたが見つけたものだから」
ノアが、横で資料をそろえながら言う。
「お役人様が最も恐れるものですね。書類の差し戻しです」
彼は差し込み紙の空欄を、爪先で軽く叩いた。
「どれほど美しい親切も、ここが埋まっていなければ、ただの未処理紙です」
ミレイアは、差し込み紙を受け取った。
そこには、まだ枠だけが引かれている。
紙は軽い。けれど、指に妙な重みが残る。
「行ってまいります」
控え室の小卓では、紹介文案が配られようとしていた。
進行補佐が写しを数え、婦人が扇を片手に微笑んでいる。
「あくまで仮の案ですが、関係者間で確認だけ」
「言葉を整えておく方が、ご本人も安心ですものね」
ミレイアは、配られようとしていた紹介文案の一枚目に手を置いた。
紙が、そこで止まる。
「それ、まだ本人は選んでいません」
控え室の音が、すうっと引いた。
進行補佐が瞬きをする。
「まだ仮の案です」
ミレイアは、紹介文案の下部を指で押さえた。
白い欄が、そこにある。
何も書かれていない。
「本人確認欄が空白です」
ミレイアは、セレフィーナから受け取った差し込み紙を、紹介文案の上に置いた。
ぴたり、と紙が重なる。
「こちらを先に埋めてください」
声は静かだった。
「エリアナ様が紹介文を確認したこと。考える時間を取ったこと。仮案を誰に回すか承知していること。そこが空白のままなら、この紙は配れません」
「そこまで厳密にしなくとも。ご本人に負担をかけないための配慮ですわ」
婦人の笑みは残っていた。
ただ、口元の端が少しだけ引きつっている。
ミレイアは、差し込み紙の空欄から目をそらさなかった。
「空白です」
その一言だけで、十分だった。
進行補佐の指が、数えかけていた写しの上で止まる。
「これは、どなたのご指示で」
言いかけた声は、ミレイアの視線に押し返された。
「橋渡し確認書の趣旨です」
差し込み紙の枠線には、まだ赤いインクが乾ききっていない。細い線の端が、わずかに滲んでいる。
婦人は何か言いたげに扇を握り直したが、紹介文案の上に置かれたその紙から目を逸らせなかった。
進行補佐は、数えかけていた写しを机へ戻した。
「……では、配布は一旦保留といたします」
紹介文案の束は、小卓へ戻された。
白磁の茶器の横で、婦人の笑みだけが引きつったまま残る。
その中央に、乾ききらない赤い枠線の差し込み紙が居座っていた。