作品タイトル不明
第88話 但し書きは静かに戻る
三枚の資料が、深夜の机上で生乾きのインクの匂いを放っていた。
高位家は「体面」。
神殿は「祝福」。
緊急時案は「迅速さ」。
並べられた言葉はそれぞれ違う。けれど、紙の端はどれも同じように波打っていた。赤を入れた箇所のインクがまだ乾ききらず、上等な紙の表面をわずかに歪ませている。
ノアが三枚の資料を無造作に重ねた。
手札を切るように、端をずらす。
赤線の入った箇所だけが、ぴたりと重なった。
「看板は違いますが、中身は同じですね」
ノアの指が、赤い線を順に押さえる。
「本人確認を薄める。記録を後回しにする。責任者をぼかす。ご丁寧に『場を乱さないため』という砂糖までまぶしてある。透かして見れば、空いている穴は全部同じ場所です」
セレフィーナは黙って見下ろした。
一枚ずつなら、まだ言い訳が立つ。
体面。祝福。迅速さ。
どれも、完全な嘘ではない。
だからこそ、紙の上で赤線が重なる光景が気味悪かった。
「責任者名の空白は、いつも一番下まで落ちてくるんです」
イレーネが緊急時案の責任欄をペン先で叩いた。
こつ、と硬い音がした。
「『家として』『神殿として』『王都判断として』。主語が大きすぎる言葉は、現場では何も助けてくれません。問い合わせ先にも、返答者にも、謝罪する人にもならない」
彼女の爪が、紙の端にかすかに食い込む。
「結局、名前のない書類の尻拭いをさせられるのは、署名欄から漏れた私たちです」
「声を拾っても、正式な入力欄に入らなければ消えます」
ミレイアが、神殿側の資料を見たまま言った。
その声は小さい。けれど、羽ペンの音を止めるだけの硬さがあった。
「“本人は困っていないようでした”と書かれたら、困っていた声は最初からなかったことになります。笑っていた。頷いていた。反対しなかった。そう記録されたら、あとから違うと言った人の方が、場を乱したように見えます」
「ミレイア」
セレフィーナは、白紙の端を引き寄せた。
「その言葉、次の案に入れるわ」
ミレイアが弾かれたように顔を上げた。
誇らしげではなかった。
自分の言葉が、誰かを守る制度の一部になる。その重さが、彼女の背筋をすっと伸ばした。
「はい」
ルシアンは、緊急時・非公開処理の案を手にしていた。
王都判断により簡略化可。
その一文を、彼は親指で強く押さえつけている。紙が歪み、赤線の端がわずかに擦れた。
「王都判断という便利な言葉に、私の名前を貸すのはもう終わりだ」
声には、怒りよりも疲労が滲んでいた。
自分の座る席の下に溜まっていた泥を、ようやく掻き出し始めた者の声だった。
「王都側が判断するなら、責任者名を最上部に置く。私か、担当役人の名を、最初に書かせる。例外という特権を認めるなら、まずそこからだ」
「役人が卒倒する配置ですね」
ノアが淡々と言う。
「構わない」
ルシアンは奥歯を噛んだ。
「嫌がる程度で済むなら安い」
セレフィーナは白紙を一枚、自分の前に置いた。
これから書くのは、例外を通しやすくする手順ではない。
例外を求めた者に、通常手順の方がまだ軽かったと後悔させるための紙だ。
表題を書く。
例外適用申請書。
羽ペンが紙を削った。
がり、と深い音が、深夜の執務室に響く。
ミレイアの言葉を受けて、本人の声がどこへ入ったのかを逃がさない枠を作る。
イレーネの指摘を受けて、省いた手順の代わりに誰が何を負担するのかを隠せない枠を作る。
ルシアンの指示を受けて、王都側の責任者名が最初に目に入る場所へ太い線を引く。
ノアが右下の余白を指で叩いた。
「非公開理由には期限を。期限を設けない非公開は、死ぬまで嘘をつき通すという宣言です」
「表現が最悪ね」
「実務的です」
セレフィーナは、さらに枠を増やした。
非公開にするなら、いつ、誰に、どの範囲まで開くのかを書かされる。
手順を省くなら、省いたことで誰に不利益が及ぶのかを書かされる。
本人確認を代えるなら、その判断をした者の名前を、逃げられない場所に置かされる。
枠が増えるたび、紙が重くなる。
特権を求める手に、鉄の鎖を一本ずつ巻きつけるようだった。
セレフィーナは、黒い文字の下へ赤で書き込む。
例外適用時、責任加重。
ノアが覗き込む。
「例外を通すための紙なのに、例外を使いたくなくなる紙ですね」
「よい紙でしょう」
「最悪です」
セレフィーナは返事の代わりに、最後の署名欄を引いた。
線は少し深く入った。
紙の繊維が裂け、赤いインクがそこへ沈む。
「これを見た役人たちが、真っ青な顔で『通常通りでお願いします』と泣きついてくるのが見えます」
「それでいいわ」
セレフィーナは、乾ききらない赤字を見下ろした。
「例外という特権が欲しいなら、その身に余る責任の重さに耐えてもらうだけ」
深夜の執務室には、生乾きの赤いインクの匂いが漂っていた。
がり、がり、と羽ペンがまだ紙を削る。
但し書きは静かに戻ってくる。
ならば、その足音を逃さぬよう、紙の上に巨大な枠を仕掛けておけばいい。
セレフィーナのペンは、最後の署名欄を、誰かの喉元へ刃を当てるように深く書き終えた。