軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第74話 押し出される笑顔

会場の正面には、白い花で縁取られた目印の布が置かれていた。

床へ直接線を引くのは品がない。そういう理由で用意された、淡く、柔らかく、上品な布だ。遠目にはただの飾りにも見える。

けれどフィオナがその上へ立つたび、布は靴底の下で微かに沈んだ。

頼りない足場だった。

「和みますわね」

「やはり、お似合いですわ」

「その笑顔で十分ですもの」

甘い声が、頭上から降ってくる。

フィオナは、その言葉の雨の中で、足元の布を静かに踏みしめていた。柔らかい布は、彼女の体重を受け止めるたびに沈む。拒むように、逃がすように、けれど決して足を離してはくれない。

ミレイアには、その沈み方が妙に気になった。

いまフィオナが立たされている場所そのものが、あの布のように不確かなのだ。

「少し前へ出るだけで結構ですわ」

「はい」

フィオナは笑った。

礼の角度は美しく、返事も柔らかい。紹介文を受け取る指先も丁寧で、どこにも乱れはない。

だから周囲は安心する。

この子なら大丈夫。

この子なら似合う。

この子なら笑ってくれる。

その安心が、次の役を呼ぶ。

「最初のご挨拶のあと、神殿側の方へ軽くお声がけを」

「そのまま地方代表の方々もご案内いただければ、流れが自然ですわね」

「一言だけで十分ですわ。フィオナ様なら、きっと」

フィオナの指が、紹介文の端を握った。

紙が、かすかに折れる。

「……はい。私で、務まるのでしたら」

返事の前に、半拍だけ穴が空いた。

ミレイアは、その穴を聞いた。

誰も拾わないほど小さい。けれど確かに、フィオナはそこで一度、息を失っている。

「フィオナ様」

ミレイアは一歩前へ出た。

「紹介文の言い回しで、本人確認が必要な箇所がございます。少しだけ、別室で確認してもよろしいでしょうか」

婦人たちは何の疑いもなく頷いた。

「まあ、丁寧ですこと」

「戻られたら、もう一度立ち位置だけ確認しましょう」

戻られたら。

その言葉を背中に受けながら、ミレイアはフィオナを会場脇の小部屋へ連れていった。

小部屋には、大きすぎない鏡と衣装掛けがある。窓は細く、外の光が斜めに入っていた。扉を閉めると、さっきまでの褒め言葉が遠のく。

フィオナはすぐに笑った。

「すみません。私、何か間違えていましたか」

「間違えてはいません」

ミレイアは紹介文を丸卓へ置いた。

フィオナはその紙を見た。指先が伸びる。けれど、触れる直前で止まった。

紙の端には、さっき握った折れ目が残っている。

「では、紹介文でしょうか」

「紹介文も大事です」

ミレイアは言った。

「でも、その前に」

フィオナの視線が、鏡の方へ逃げた。

笑顔がまだ残っている。

ただ、その形を保つ力が薄い。

「やりたくないなら、そう思っていいんです」

フィオナの唇が動いた。

大丈夫です、と言おうとしたのだろう。

けれど声は出なかった。

彼女は紹介文を手に取る。折れた角を指でなぞり、まっすぐに直そうとして、余計に皺を深くした。

「……大丈夫です」

やっと出た声は乾いていた。

「少し緊張しているだけです。皆さま、よくしてくださっていますし」

次の息が入ってこない。

フィオナは胸元に手を当てた。笑顔を戻そうとして、口元だけがぎこちなく上がる。けれどすぐに止まった。

「安心、なんて」

ミレイアの声が、思っていたより低く出た。

「なんて残酷な言葉なんでしょう」

フィオナが顔を上げる。

「あなたが自分の呼吸を削って作った笑顔を、あの方たちは自分たちの安らぎの道具だと思っている」

ミレイアは、胸の奥に溜まっていたものを吐き出すように言った。

「笑えるから大丈夫だなんて、誰が言ったんですか。そんなの、ただの絞め技です」

フィオナは泣かなかった。

その代わり、息を探していた。

どう吸えばいいのか、どこから声を出せばいいのか、急にわからなくなった人の顔をしている。

「似合うって」

小さな声が落ちた。

「言われるたびに、断る方が間違っている気がしてくるんです」

喉に張り付いたまま、形を成さない掠れた音。

それは、これ以上一歩も歩けないと叫んでいる、剥き出しの悲鳴だった。

「私が笑えば済むなら、その方がいいって、思ってしまいます」

フィオナは紙を見つめたまま続ける。

「でも、笑うたびに、次の役が増えていくんです。少しだけって言われるのに、少しで終わったことがなくて」

紙の皺が、また深くなる。

「嫌だと思う前に、似合う顔を作ってしまうんです」

ミレイアは拳を握った。

甘い声の主たちだけではない。

彼女たちに「安心」を無償で提供し続けさせてきた、この残酷な仕組みそのものへ、ミレイアは牙を剥きたくなった。

「似合う顔なんて、作らなくていいです」

「でも」

「いいんです」

ミレイアは言い切った。

「笑えなくなったら困る人たちがいるだけです。あなたが困っていることは、誰も困りごととして扱っていない」

フィオナは、初めてミレイアをまっすぐ見た。

その目は濡れていない。

ずっと乾いたまま耐えてきた目だった。

「私、前に立つこと自体が、絶対に嫌なわけではないんです」

「はい」

「必要なら、やります。できることなら、役に立ちたいとも思います」

フィオナは言葉を一つずつ選んだ。

「でも、先に“あなたなら大丈夫”って決められていると……苦しいです」

そこで息が詰まる。

「断る余地が、最初から薄くなっていくみたいで」

ミレイアは頷いた。

「それを、セレフィーナ様にも伝えます」

「そんな、大げさな」

「大げさにします」

ミレイアの声は冷えていた。

「小さく扱うから、みんな気づかないんです」

フィオナは困ったように笑おうとした。

けれど、うまく笑えなかった。

それを誤魔化すように、彼女は鏡の前へ立つ。

「変ですね」

ぽつりと呟いた。

「さっきまで、できていたのに」

鏡の中で、フィオナはもう一度“親善向きの笑顔”を作ろうとした。

口角を上げる。

片方だけが少し歪む。

目元は固いまま動かない。

沈黙が落ちた。

短い沈黙ではなかった。

フィオナ自身が、鏡の中の顔をどう扱えばいいのかわからずに立ち尽くすだけの長さがあった。

やがて、彼女は手で口元を隠した。

「……ごめんなさい」

何に対する謝罪なのか、本人にもわかっていない声だった。

ミレイアは一歩近づき、鏡とフィオナのあいだに立った。

鏡の中の死んだ笑顔を、もうそれ以上フィオナに見せたくなかった。

「謝らなくていいです」

ミレイアは、丸卓の上の紹介文へ手を伸ばした。

折れ曲がった紙を、奪い取るように引き寄せる。皺に指を置く。そこに残った力の跡を、二度と見なかったことにはしない。

「“整っている”ことがそんなに大事なら」

ミレイアは低く呟いた。

「当日は、その整った顔がどうしようもなく引き攣るための、とびきり綺麗な一文を用意して差し上げます」

紹介文の余白へ、彼女は小さく印をつけた。

本人意思確認、未了。

たったそれだけの文字が、さっきまで甘く飾られていた紙の上で、ひどく可愛げなく光っていた。