作品タイトル不明
第33話 断罪劇の始まり、のはずだった
卒業舞踏会の会場は、息を呑むほど美しく整えられていた。
高い天井から落ちる灯はやわらかく、磨き込まれた床には金色の光が薄く流れている。花々は過不足なく飾られ、祝賀の音楽は上品に抑えられ、誰が見ても若者たちの門出を祝う夜にしか見えない。
けれど、セレフィーナが一歩踏み出した瞬間、肌を撫でた空気の冷たさでわかった。
ここは祝賀の場ではない。
自分を、あるべき位置へ戻すための場だ。
会場へ足を踏み入れた途端、ざわめきが波のように広がった。
歓迎の声ではなかった。驚きと、戸惑いと、そしてどこかで待っていたものがようやく揃った時の、奇妙に湿ったざわめき。
アシュクロフト侯爵令嬢が戻ってきた。
しかも、侯爵家の正式な後ろ盾を伴って。
セレフィーナはその視線を正面から受けた。以前なら、胸の奥が細く強張っただろう。王都の視線はいつも、言葉より先に人を役へ押し込めようとしたからだ。
けれど今夜の彼女は、その視線に飲まれない。
白に淡い銀糸を走らせた礼装は侯爵家の格にふさわしく、それでいて飾り立てすぎてもいない。侍女として一歩後ろに控えるリズも、以前よりさらに背筋を伸ばしていた。二人とも、目立つために立っているのではない。揺らがないために立っている。
会場の中央寄りにはルシアンがいた。
王子として不足のない立ち姿。夜会の中心に立つにふさわしい華やかさがある。隣にはミレイア。淡い色の衣装をまとい、誰が見ても祝福されるべき少女に見えるよう、そこへ置かれていた。
ああ、とセレフィーナは胸の内で静かに思う。
やはり、そういう並びなのだ。
王子。
選ばれる少女。
そこへ向けられる視線。
そして、その絵へ歪みを持ち込むはずの侯爵令嬢。
あとは、誰かが善意の顔で口火を切ればいい。
セレフィーナは歩みを止めず、会場の中央からやや外れた位置まで進んだ。止まる場所は決めてある。中央の真下ではない。けれど、声を上げれば十分に届く場所。
正面から高位司祭が進み出た。
白と金を基調とした神殿の正装は、燭台の光を受けて清らかに見える。微笑みも、祝福の席にふさわしい落ち着きを纏っていた。
「アシュクロフト嬢。このたびのご帰還、まことに喜ばしく存じます」
「お言葉、ありがとうございます」
礼を返す。
形式としては、何もおかしくない。
帰還を祝う。
門出を言祝ぐ。
秩序ある祝賀の場を整える。
けれど、司祭の声音の底には、もう次の流れが仕込まれていた。
「今宵は若き方々の未来が、正しき巡りのもとに結ばれる佳き夜。こうして皆さまがお揃いになったことにも、深い意味がございましょう」
「そうかもしれませんね」
セレフィーナは微笑みもせずに答えた。
周囲の会話が、わずかに細る。
ここでさらに一歩踏み込む者が出る。
案の定、学園側の重鎮である年配の貴婦人が、いかにも気遣わしげな顔で口を開いた。
「ですが、若い方々の行く末に関わることですもの。もし少しでも行き違いがございまし」
「その前に」
貴婦人の声を、セレフィーナの静かな一言が断ち切った。
大きな声ではない。
けれど、会場のどこへでも届いた。
貴婦人の言葉が宙に止まり、弦楽の音さえ一瞬遠のいたように感じられる。ざわめきが細くなり、視線が一斉に集まった。
セレフィーナはゆるやかに周囲を見渡した。
「本日のご発言は、すべて記録を取っていただけますか」
息を呑む気配が、あちこちで重なる。
高位司祭が穏やかな顔のまま問い返した。
「記録、とは」
「ええ」
セレフィーナは落ち着いて答える。
「皆さまの前でのお話ということでしたら、誰が何をおっしゃったのか、誤解なく残した方がよろしいでしょう。今宵のような晴れの席ですもの。後になって『そういう意味ではなかった』と食い違うのは、あまり美しくございません」
ざわめきの質が変わった。
記録。
誤解なく。
皆の前で。
それはつまり、感情の流れで押し切るのではなく、言葉に責任を負わせるということだ。
高位司祭の指先が、ごくわずかに強張る。
「アシュクロフト嬢。今宵は祝賀の席にございます。あまり堅く構えずとも」
「祝賀の席だからこそ、整えたいのです」
セレフィーナは言葉を被せず、しかし間を渡さぬ速さで返した。
「もし皆さまがお聞きになりたいことがおありなら、皆さまの前で、順番にうかがいます。私も曖昧なまま受けるつもりはございません」
会場の空気が、はっきりと揺らいだ。
それまで貴族たちが待っていたのは、流れだった。侯爵令嬢がどう怒り、どう言葉を荒らげ、どう場を乱すのか。その見慣れた筋道を待っていた。
けれど今は違う。
誰が何を言うのか。
神殿はどう答えるのか。
この場で本当に何を明らかにしたいのか。
視線が、流れから中身へ変わり始める。
セレフィーナはそこで、ミレイアの方を見た。
神殿も、貴族たちも、おそらく次を待っている。困ったように目を伏せる可憐な少女。怯えたように王子の近くへ寄る仕草。何も言えず、ただ目を潤ませる被害者。
そういう絵を。
けれどミレイアは、泣かなかった。
青ざめてはいる。緊張で指先も固い。けれど唇を結び、視線を伏せすぎず、自分の足で立っている。
助けを求めるようにルシアンへ寄りもしない。
曖昧な困惑の顔で場へ委ねもしない。
ただ、話す順番を待っている。
それだけで十分だった。
高位司祭の目元に、今度こそ細い焦りが差す。学園側の者たちも互いに視線を交わし始める。整えられていたはずの空気に、小さな綻びが次々と入っていく。
誰かが想定していた“可憐な被害者”がそこにいない。
誰かが待っていた“怒れる悪役令嬢”もそこにいない。
それだけで、会場は思った以上に不安定だった。
ルシアンもまた、その変化を見ていた。表情こそ崩さないが、目の奥に張っていたものが明らかに変わる。彼も今、この場がもはや“穏やかに収まるはずのもの”ではなくなったと知ったのだろう。
神殿側はなおも取り繕おうとする。
「記録などと言わずとも、誠意ある対話は」
「誠意ある対話でしたら、なおさら公の場で結構です」
セレフィーナの声は強くはなかった。
だが、一音ごとに引き返させない強さがあった。
「私も逃げません。ですから皆さまも、曖昧な流れではなく、お言葉でお話しくださいませ」
貴族たちの囁きが、今度ははっきりと意味を変える。
侯爵令嬢が怒るかどうか。
ミレイアがどれほど可哀想に見えるか。
そこではなくなっていた。
なぜ記録を求めるのか。
神殿はそれにどう答えるのか。
誰が何を、どの責任で口にするのか。
観客だった者たちが、流れではなく中身を見始める。
それこそ、この場でもっとも恐れられることだったはずだ。
セレフィーナは会場の中央へ、もう半歩だけ進み出た。
視線が一斉に集まる。
だがもう、その視線は彼女を怒らせるためのものではない。何を言うのかを待つ視線だ。
ならば、ここで言葉を置く意味がある。
「今宵」
会場はしんと静まった。
音楽さえ、どこか遠くへ退いたように感じる。
「誰か一人を悪役にして終えるおつもりでしたら、私はそのためには立ちません」
その言葉は、剣のように鋭くはなかった。
けれど、祝賀の飾りを一枚ずつ剥がしていくような、静かな強さがあった。
「お話があるなら、皆さまの前で、順番に伺いましょう」
言い終えた瞬間、会場の空気が完全に変わった。
始まるはずだった劇が、始まらなかったと、誰もが知った。
そして、その静まり返った中心で、ルシアンだけが、セレフィーナを見ていた。
困惑でも、怒りでもない。
諦めでも、救いでもない。
初めて見る、複雑な色の光が、その目に差していた。