軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第34話 悪役は、最初から必要なかった

会場に落ちた静けさは、先ほどまでの祝賀の気配をかすかに残したまま、奇妙な形で張りつめていた。

誰も声を荒らげてはいない。

それでも、もうこれはただの舞踏会ではなかった。

磨かれた床の上で燭台の灯が揺れている。壁際の貴婦人たちは扇を半ばで止め、若い令息たちは互いに目配せしながらも、誰一人として先ほどまでの軽い笑みへ戻れていない。

セレフィーナは会場の中央で、視線を逸らさずに立っていた。

周囲はまだ待っている。

侯爵令嬢が、ここから冷ややかに言い返すのではないか。

あるいは、いっそ感情を露わにしてくれれば、そこへ皆で意味を与えられるのに。

そんな期待とも願望ともつかないものが、薄く漂っている。

けれど、セレフィーナはそのどちらにもならなかった。

「まず、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

彼女の声は静かだった。

静かであるぶん、かえってよく通った。

「私は今宵、何を問われる立場なのでしょう」

高位司祭の目元が、わずかに動く。

セレフィーナは続けた。

「私に何か落ち度があったと仰るのであれば、どの言葉が、どの振る舞いが、誰に対する、どのような害であったのか。順にうかがいたく存じます」

「アシュクロフト嬢」

司祭は穏やかな声音を崩さない。

「今宵は、糾弾のための場ではございません。若い方々の行き違いがございましたなら、それを整え」

「でしたら、なおのこと明確にいたしましょう」

セレフィーナは、相手の声へ滑り込むように言葉を置いた。

「学園側からも、先ほど“お話を整える”とのお言葉がございましたね」

彼女はゆるやかに顔を巡らせ、先ほど口を挟んだ壮年の貴族を見た。

「では、閣下」

会場の視線が、その男へも集まる。

「私が、いつ、どこで、誰に対して、どのような害をなしたのか。今ここで、順にお答えくださいませ」

男は一瞬、口を開いた。

だが出たのは意味を持たぬ息だけだった。

「それは……空気というものが」

「ええ」

セレフィーナは頷いた。

「まさに、その“空気”なのです」

その一言で、会場のざわめきがわずかに色を変えた。

セレフィーナは、もはや男から目を外さなかった。

「私は、侯爵令嬢です。婚約者候補でもありました。そして、おそらく多くの方には、冷たく、厳しく見えたのでしょう」

一拍置く。

「ですから、私を悪役の位置へ置くのは、さぞ都合がよかったのでしょうね」

今度こそ、会場の空気がはっきり揺れた。

反論しづらい。

それでいて、否定すればするほど痛いところへ触れる言い方だった。

「侯爵令嬢であること。婚約者候補であること。厳格に見えること。少し笑わなければ、それだけで冷たい人間に見えやすいこと。そうしたものが揃っていれば、私は“そういう役に置きやすい人間”に見えたのでしょう」

「そのような決めつけは」

男はようやく声を絞った。

「誰も、あなたを最初から悪役にしようなどと」

「本当にそうでしょうか」

セレフィーナの声音は変わらない。

「ではもう一度うかがいます。私は、明確な侮辱を口にいたしましたか。誰かを陥れるための嘘を流しましたか。学園の規律を乱すような行いを、公にいたしましたか」

「それは……」

「お答えになれないのですね」

その言葉は、剣のように鋭いわけではなかった。

けれど逃げ道だけを正確に塞いでいく冷たさがあった。

「私が問題なのではなく、私を問題に見せやすい空気が先にあったのでしょう。侯爵令嬢だから。婚約者候補だから。冷たく見えるから。その程度の曖昧さで、人は簡単に“そういう人”にされてしまう」

そこで視線を会場全体へ広げる。

「私が責められたことそのものより、人が人としてではなく、役として扱われていたことの方が、よほど異様です」

その言葉は、場を切り裂くというより、祝賀の飾り布を一枚ずつ剥がしていくようだった。

誰もが見えていたはずの“美しい構図”の下から、粗い骨組みが覗いていく。

沈黙の中で、ミレイアが小さく息を吸った。

セレフィーナは彼女を見た。

青ざめている。

震えてもいる。

けれど、その目はもう、ただ順番を待つだけの怯えではなかった。

ミレイアは一歩、前へ出た。

そのわずかな動きに、会場の視線が一斉に集まる。

神殿も、貴族たちも、ルシアンでさえも、息を止めたようだった。

「……私も」

最初の声は、少しかすれていた。

「私も、お話ししてよろしいでしょうか」

高位司祭が何かを言うより先に、セレフィーナが静かに頷いた。

「もちろんです」

ミレイアは唇を結び直し、もう一度ゆっくり息を吸った。

「殿下に助けていただいたことへは、感謝しています」

その一言に、会場の緊張がわずかに緩む。

だが次の瞬間、その緩みは切られた。

「ですが、それはセレフィーナ様を悪役にしてよい理由にはなりません」

ざわめきが、今度ははっきりと波立つ。

ミレイアは震える手を胸の前で握りしめたまま、視線を逸らさなかった。

「私は、セレフィーナ様から明確ないじめを受けたことはありません」

その一言は、今宵いちばん重く落ちた。

扇の鳴る音がひとつ遅れて響く。誰かが慌てて閉じたのだろう。

「厳しい方だと思ったことはあります。怖く感じたこともありました。でも、それは私が不慣れで、勝手に萎縮していた部分もあったと思います」

息が浅くなる。

それでも、彼女は止まらない。

「少なくとも、セレフィーナ様が私を傷つけようとして、何かをなさったことはありません」

高位司祭の穏やかな顔が、わずかに強張った。

一部の貴族たちは、露骨に居心地悪そうな顔をした。

彼らが欲しかったのは、ここで「でも怖かったんです」と潤んだ目を向ける少女だったはずだ。

けれどミレイアは、その役に入らない。

「私は、守られたかったわけではありません」

声はまだ震えていた。

だが、その震えの上に自分の意志を置いている。

「誰かを踏み台にして選ばれたかったわけでもありません。周りが勝手に“そういう物語”に見ていただけです。私が報われるためには、誰かが悪いことになってくれないといけないみたいに」

一度、喉が詰まる。

それでも彼女は目を伏せずに言い切った。

「私は、それがずっと苦しかったです」

セレフィーナは彼女を見ていた。

可哀想な少女ではない。

主役でもない。

震えながら、それでも自分の位置を取り戻そうとしている一人の娘だった。

その瞬間、会場の空気から、はっきりと何かが失われた。

誰を責めれば気持ちよく終われるのか。

誰へ同情すれば綺麗に収まるのか。

その置き場所を、皆が失っていた。

貴婦人たちは扇を持つ手を迷わせ、令息たちは何を驚けばよいのかわからない顔をしている。先ほどまでなら「侯爵令嬢がどう出るか」を見物するだけでよかった観客たちが、いまは自分で何を聞いたのかを考えざるを得ない。

悪役。

被害者。

そのわかりやすい線引きが、二人の口から同時に拒まれたのだ。

「……ですが」

なおも学園側の貴婦人が、取り繕うように声を出した。

「若い方々のあいだに、行き違いがなかったとは申しませんでしょう? 今宵はそれを美しく」

「美しく、ですか」

セレフィーナは静かに問い返した。

その言い方に、貴婦人の口元が止まる。

「必要だったのは、真実ではなく、都合のよい終わり方だったのでしょう」

もう誰も、その言葉を軽く受け流せなかった。

「誰か一人が悪役で、誰か一人が報われる側に見えれば、皆さまは次へ進みやすかった。王都も、神殿も、社交界も。そういう終わり方で整えられるなら、その方がずっと楽だったのでしょう」

「アシュクロフト嬢、それはあまりにも」

「では違うと、はっきり仰ってくださいませ」

セレフィーナの声は強くない。

けれど、もうこの場で曖昧な慈悲へ逃がす気はないのだと、誰にでもわかる声音だった。

「真実を見たかったのだと。誰を悪役に置くこともなく、ただ事実だけを確かめたかったのだと」

返事はなかった。

あるいは、返せなかった。

それ自体がもう、十分な答えだった。

セレフィーナは会場の中央で、ゆっくりと周囲を見渡した。

神殿。

王家。

学園。

社交界。

そして、その“物語”を見届けるだけの客でいられなくなった人々。

今なら言えると思った。

この場の空気が、もう以前のように流れだけで押し切れないと知っているから。

「悪役が必要だったのではありません」

しんとした会場に、その言葉は澄んで落ちた。

「悪役がいたことにして終わらせたい方々がいただけです」

高位司祭は、初めて言葉を失った。

学園側の貴婦人は扇を閉じたまま、もう一度開くことができない。

そして会場の誰一人として、セレフィーナへ“悪役らしい次の台詞”を求めなくなっていた。

セレフィーナはそこで、視線だけを少し横へ流した。

「ノア」

その名に、会場の何人かが反応する。

壁際に控えていたノアが、わずかに顎を上げた。

「今の証言、記録は取れているかしら?」

不敵なほど静かな問いだった。

ノアは薄く笑った。

「ええ。きれいに残っています」

その返答が落ちた瞬間、場に残っていた最後の飾りまで、音もなく剥がれ落ちた気がした。