軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第17話 昔も、誰かが悪役だった

帳簿の中に残った違和感は、数字だけでは終わらなかった。

翌日の午後、セレフィーナは館の奥にある古記録室の前に立っていた。厚い扉には古い真鍮の取っ手がつき、鍵穴のまわりだけが長年の手触りでわずかに鈍く光っている。ここは、使われなくなったものを押し込める場所ではない。侯爵家に関わる過去を、必要になれば取り出せるようにしまっておく場所だ。

だからこそ、少し怖い。

リズが家令から預かった鍵を差し出した。

「重うございますので、お気をつけください」

「ありがとう」

鍵を差し込み、ゆっくり回す。内部で硬い金属が噛み合う音がして、扉は思った以上に素直に開いた。

乾いた紙と木の匂いが流れてくる。

室内は薄暗かったが、埃っぽさよりも、長く閉ざされた秩序の匂いがした。壁際に背の高い棚が並び、棚ごとに年代と内容の札が下がっている。年次の収支記録、祭礼控え、王都との往復書簡、婚礼や弔事の記録、社交報告。古いものほど革紐でまとめられ、箱へ収められていた。

セレフィーナは一歩中へ入り、自然と息を潜めた。

「何かお探しになるのでしたら、近年分からお持ちいたします」

リズが言う。

「いいえ。今回は少し古いところを見たいの」

「帳簿で見つけた年ですか」

「ええ。王都へ余分な金が流れていた年、その前後」

昨日、机の上に並べた数字の列は、まだはっきりと頭の中に残っている。

神殿への特別献納。王都式典準備費。学園卒業関連寄付金。

名目は違う。けれど増える年の空気が似すぎていた。しかも、その年には領地の水路や納屋や備蓄が、きれいに後回しにされていた。

数字だけでは足りない。

あの年に王都で何が起きていたのか。誰が前へ出て、誰が後ろへ押しやられたのか。その輪郭が必要だった。

セレフィーナは棚の札を追い、三十年ほど前の箱をひとつ引き出した。箱は意外に軽く、中には社交報告の束と、家人がまとめた簡易年録、それに祖母の代の手紙らしいものがきれいに仕分けられている。

「この辺りから見ましょう」

最初の数通は、ごく普通の社交記録だった。

どの家がどの茶会を開いたか。どの婚約話がまとまりかけ、どの派閥が王宮で顔を揃えたか。祝祭で誰が主役の位置を得たか。表向きの記録としては、むしろ丁寧すぎるほど整っている。

だが、帳簿で支出が膨らんでいた年の前後に差しかかったところで、妙な名前が繰り返し目に入るようになった。

「エルヴィラ・ヘインズ伯爵令嬢……」

はじめはただの社交報告の中の一行だった。

近頃、ヘインズ伯爵令嬢の振る舞いに難ありとの評判。

続く手紙でも、その名前は少しずつ濃くなる。

殿下に近しい方へ見苦しい態度を取ったとか。

社交界にて嫉妬深い振る舞いを見せたらしい。

学園でも、空気を乱したと聞く。

どれも「らしい」「聞く」「とか」の類ばかりだ。

セレフィーナは紙の端を押さえたまま、目を細めた。

評判は強い。

なのに、肝心なことがひどく薄い。

「何をしたのかが、どこにもないのね」

思わず声にすると、リズが隣からのぞき込む。

「本当でございますね。悪いことをした、と書いてあるのに」

「ええ。“悪女だった”という結論だけが濃くて、事実がない」

次の記録にはこうあった。

伯爵令嬢の件により、婚約話は白紙に近くなったとの由。

これにて一件落着と見る向きも多い。

一件落着。

その言葉が、ひどく軽く見えた。

まるで、何かが片づいたことだけが大事で、どうしてそうなったかは最初から必要ではなかったような書き方だ。

別の手紙では、もっと露骨だった。

あの娘は社交界を乱した。あれほど感情に浅い者では、いずれ誰かが困ったことだろう。

むしろ早く表に出てよかった。

セレフィーナはそこで紙を置いた。

聞いたことがある。

そう思った。

語尾も温度も違うのに、骨組みが同じだ。

「あの人は嫉妬深い」「空気を乱した」「早く処理されてよかった」。

何をしたかより、どういう役に置くかが先に決まっている言葉。

それはまるで、自分が学園であてがわれかけていた位置そのものだった。

「お嬢さま」

リズが小さく呼ぶ。

「ええ。わかっているわ」

「……似ております」

「ええ」

その一言だけで十分だった。

似ている。

そしてたぶん、似ていること自体が偶然ではない。

セレフィーナは社交記録の束を横へ寄せ、同じ年の簡易年録を開いた。

そこには、家人がその年ごとの大きな出来事を淡々と書き留めている。誰かの結婚、王都での祝祭、税の調整、神殿からの使者、王宮の動き。感情をほとんど交えない書きぶりだからこそ、並び方の不自然さが見えやすい。

「……あ」

最初に声を漏らしたのは、リズの方だった。

エルヴィラ・ヘインズ伯爵令嬢の婚約話が外れたとされる直後、王都では三つの動きが立て続けに起きていた。

ひとつは、派閥の婚姻再編。

ふたつ目は、神殿儀礼の一部強化。

みっつ目は、王宮と神殿の共同主催による特別祝祭の格式変更。

どれも、令嬢ひとりの醜聞とは釣り合わないほど大きい。

しかも帳簿の記録と重ねると、その年に限って領地からの特別献納も増えている。

セレフィーナは紙を一枚ずつ静かにめくった。

春。伯爵令嬢の不穏な評判。

初夏。婚約話より離脱。

夏。神殿儀礼の見直し。

秋。婚姻調整の整理。

同年。王都関連支出の増加。

並べると、あまりにも綺麗だった。

綺麗すぎる、とさえ思う。

「ひとりの令嬢が落ちた直後に、別のことが全部通っている」

セレフィーナの声は低かった。

「まるで……」

リズがそこで言い淀む。

「舞台の幕が下りたあとに、裏で全部組み替えたみたい、かしら」

「はい」

まさしくそれだった。

社交界では悪女の噂が広まり、視線はそちらへ集まる。

その間に王都では、別の再編が静かに進む。

誰かひとりの“醜聞”が、より大きな動きの目くらましになっている。

あるいは、目くらましとまでは言わなくても、物事を通しやすくするための整地だ。

セレフィーナはその考えに触れた途端、背筋の奥へ冷たいものが落ちていくのを感じた。

乙女ゲームの筋書きだと思えば、まだ狭い世界で済んだ。

学園の中で、誰かが選ばれ、誰かが落とされる。

それだけなら、息苦しくても物語としては理解しやすい。

けれど、もし王都が昔から同じやり方を繰り返してきたのだとしたら。

誰かひとりを悪役へ押し込み、その処理を“美しい結末”として消費し、その裏で別の何かを整えて通す。

それはもう恋愛劇ではない。

もっと現実で、もっと根深く、もっと汚い。

記録を追ううちに、さらに気味の悪いことが見えてきた。

エルヴィラという伯爵令嬢の名前は、ある年を境に急に薄くなる。

それまではあれほど評判が強かったのに、その後どうなったのかは妙にぼやけているのだ。

王都を去ったらしい。

療養と聞く。

親族のもとへ下がったとか。

どれも断片で、確定した記述がない。

「消えているわね」

セレフィーナは呟く。

「はい」

「何も残っていないわけではないの。名前も評判も残っている。でも、その先が霧みたい」

リズは黙ってうなずいた。

記録がなかったのではない。

都合のよい輪郭だけを残して、中身が薄くされている。

“嫉妬深い悪女だった”という印象は流通する。

けれど何をしたのかは曖昧なまま。

どこへ消えたのかも曖昧なまま。

なのに“いなくなって当然だった”という結論だけが綺麗に残る。

それは、記録というより演出に近かった。

セレフィーナは思わず、昨日の帳簿と今日の紙束を頭の中で重ねた。

領地から抜かれる金。

王都での儀礼強化。

曖昧な罪状で外される令嬢。

そして、そのあと通る大きな再編。

別々に見えていたものが、一本の筋になり始めている。

「今回も、同じかもしれない」

その言葉は、確信ではなく推測だった。

けれど、ただの思いつきよりはずっと重かった。

セレフィーナ自身、今回の件で何かを“した”わけではない。

ミレイアをいじめた証拠もなければ、誰かを公然と傷つけた事実もない。

それなのに、役だけは綺麗に用意されていた。

悪役令嬢。嫉妬深い婚約候補。正義の見せ場を引き立てるための障害物。

もし自分が舞台から降りずに立ち続けていたなら、未来の記録にも似たようなことが書かれていたかもしれない。

空気を乱した侯爵令嬢。

見苦しい振る舞い。

婚約候補より外される。

これにて一件落着。

そう想像した途端、喉の奥がひどく冷えた。

古記録室の窓は小さく、夕方が近づくほど光の筋が細くなる。

紙を追う時間は思っていた以上に早く過ぎたらしく、いつの間にか箱の横へ積んだ文書の影が長く伸びていた。

セレフィーナは最後の一通を閉じ、しばらくそのまま手を置いていた。

部屋の中は静かだ。

古い紙の匂いと、乾いた木の匂い。

遠くで、館のどこかの扉が閉まる音が小さく響く。

「お嬢さま」

リズの声も、自然と低くなる。

「……ええ」

セレフィーナはようやく手を離した。

今回だけではない。

自分だけでもない。

誰かひとりの悪役処理のあとに、王都の再編が進み、神殿の儀礼が強まり、領地から金が流れる。

そういう年が、昔にもあった。

しかも記録には、悪役にされた令嬢の輪郭だけが濃く残り、中身は霧にされている。

それは偶然の重なりとしては、あまりにも出来すぎていた。

セレフィーナはゆっくり記録を束ね、箱へ戻した。

紙が重なる乾いた音が、妙に遠く聞こえる。

「悪役令嬢は」

自分でも驚くほど静かな声が出た。

「一人だけじゃなかったのね」

それは嘆きではなかった。

怒りとも少し違う。

もっと冷えた、深い理解に近いものだった。

今回の件は、自分がたまたま巻き込まれた学園の恋愛騒ぎではない。

王都はもっと前から、もっと手慣れたやり方で、誰かを役へ押し込めてきたのかもしれない。

そう思った時、いま自分が舞台の外へ出ていることの意味も、前よりずっと重く見えた。

もし戻れば、自分もその歴史の中へきれいに組み込まれる。

そういう怖さが、ようやく輪郭を持って立ち上がったのだ。

古記録室を出る前に、セレフィーナは一度だけ振り返った。

棚と箱と札が、薄い夕方の光の中で静かに並んでいる。

何十年も、何も言わずにそこへ積まれてきた記録たち。

けれど紙は、ときどき黙ったまま十分すぎるほど多くを語る。

今日それを知った気がした。