作品タイトル不明
番外編5 有能令嬢クラリッサは今日も忙しい
わたくしがこの宮廷に来たのは、父が大臣に任じられたからですわ。
南方の名家ロートリンゲン。由緒ある家柄。社交の場には慣れている。宮廷に出れば、すぐに華やかな立場を得られると思っておりました。
甘かった。
宮廷の令嬢たちは、わたくしを遠巻きにした。声が大きい、気が強い、派手すぎる。目が合っても笑顔は返さない。集まりに誘われない。
孤独。
認めたくはなかったけれど、孤独でしたわ。
だから——陛下にお目通りしたとき、あの穏やかな目を見て、この方だと思った。この方なら、わたくしを受け入れてくださるかもしれない。この方のお傍にいたい。
今思えば、それは恋ではなく、寂しさだった。
でも、あの頃のわたくしにはわからなかった。
*
陛下のことを調べた。お茶の時間、好みの菓子、通られる廊下。三日でスケジュールを把握した。厨房を一週間で全員当たった。花を置く場所の光の入り方まで確かめた。
我ながら、よくやったと思いますわ。
しかし、全て空振りでした。侍従に止められ、護衛にお断りされ、花は片付けられた。
そして気づいた。陛下が最も多くの時間を共にしておられるのは、黒い髪の女だと。
見黒様。
神託少女。
わたくしは——あの方が、憎らしかった。
*
廊下で、道を譲らなかった。
わたくしなりの宣戦布告でしたわ。ここにいる!あなたに負けるつもりはないのだ、と。
見黒様が足を止められた。
わたくしを見た。黒い目が、まっすぐこちらを見た。
何を言われるかと身構えた。「道を空けなさい」か。「無礼ですわね」か。あるいは、冷たい笑みで通り過ぎるか。
見黒様が仰ったのは——
「……あなた、とても綺麗ね」
頭が真っ白になりましたわ。
「その巻き毛。陽に当たると金色が透けて見えるわね。それに、肌がまるで磨かれた陶器のよう。……綺麗。とても綺麗」
何を仰っているの。わたくしはあなたに戦いを挑んでいるのよ。なぜ褒めるの。なぜその目に敵意がないの。
「あなたの隣に立ったら、どんな絵になるかしら。黒と金。面白いわね」
見黒様はそう仰って、わたくしの横をすり抜けて行かれた。
振り上げた拳の行き場がなかった。
すぐに、お茶の招待状が届いた。
行くべきかどうか迷った。罠かもしれない。わたくしを呼び出して、衆人の前で恥をかかせるつもりかもしれない。
けれど。
行かずにはいられなかった。「綺麗ね」と言われた声が、耳に残っていたから。
*
お茶の席で、わたくしは全てをぶつけた。
陛下とはどういう関係なのか。わたくしを追い払わないのか。
見黒様は動じなかった。
「なぜ追い払うの? 陛下を好きな人がいるのは、悪いことではないでしょう」
……ずるい。そんなこと言われたら、怒れないではないですか。
「それよりも——菓子を食べないの? おいしいわよ」
食べた。おいしかった。悔しいことに。
気がつけば、自分の話をしていた。南方の実家のこと。友達がいなかったこと。宮廷で孤立していること。
なぜ敵に弱みを見せているのか、自分でもわからなかった。しかし、見黒様の目が——杞憂を聞くときの目だと、後で知ったが——あまりにも静かで、何も品定めしていない目だったから。
帰り際に見黒様が仰った。
「あなたとわたしとでやりたいことがあるの。協力してくれないかしら」
何のことかわからなかった。しかし、頬が熱くなった。
敵だと思っていた人に、必要とされている。
それが——嬉しかった。
*
催しの運営を任された。
正直に申し上げて——天職でしたわ!
会場の手配、参加者の管理、当日の進行。全てが、わたくしの得意なことだった。陛下のスケジュールを三日で把握した情報収集力。厨房を全員当たった行動力。花の配置で光の入り方まで確かめた審美眼。全部、ここで活きた。
催しの準備で、侍女たちや令嬢たちと話す機会が増えた。最初は警戒されていた。しかし、一緒に働くうちに変わっていった。
「クラリッサ様、こちらの配置でよろしくて?」
「こっちの方がいいわ。光が奥まで届く。花は入口に集中させて、奥は香りで誘導するの」
令嬢たちが顔を見合わせた。
「さすがですわ……」
初めてでしたわ。「さすが」と言われたのは。
気がつけば、周りに人がいた。わたくしの声が大きいことを、「指示が通りやすい」と言ってくれる人がいた。わたくしの気の強さを、「頼りになる」と言ってくれる人がいた。
友達ができた。
二十年近く生きてきて、初めて、多くの友達ができた。
*
催しを四度、五度と重ねるうちに、宮廷の中でわたくしの立場は変わっていた。
地方から「うちでも催しを」という声が上がったとき、見黒様が仰った。
「クラリッサに手引書をまとめてもらいましょう」
二ヶ月で書き上げた。無我夢中で、全力でしたわ。会場の選び方から天候対策まで。わたくしが四度の催しで学んだ全てを注ぎ込んだ。
手引書が地方に配られて、催しが各地で開かれた。全ての土地で成功した。
ある日、見黒様がお茶を飲みながら仰った。
「クラリッサ。あなた、すごいわね」
不意打ちでしたわ。
「見黒様こそ」
「わたしは何もしていないわよ。あなたがしっかりとやってくれたのよ」
(……また。この方はまた、そういうことを仰る。わたくしの手柄をわたくしのものにしてくださる)
*
催事大臣に任じられた日。
陛下から直接、辞令をいただいた。
「クラリッサ嬢。この国の催事を束ねる大臣の任を、お前に託したい」
背筋がぶるぶる震えた。
大臣。わたくしが。あの、陛下に突っかかっていた女が。見黒様に敵意を向けていた女が。お父様と同じく、大臣という立場に。
辞令を受けた後、見黒様の部屋に行った。
「見黒様」
見黒様が立ち上がられた。
「おめでとう、クラリッサ!」
涙が決壊してしまいましたわ。……この方の前では、堪えられなかった。
「わたくしは……あなたに突っかかっていた女ですわ」
「知っているわ。懐かしいわね」
わたくしは涙を拭った。
「あのとき、廊下でわたくしが道を譲らなかったとき。見黒様は、『綺麗ね』と仰いましたわ」
見黒様が頷いた。
「言ったわね」
クラリッサ嬢の声が、かすれた。
「あの一言がなかったら、わたくしは今ここにいませんわ」
見黒様がお茶を差し出してくださった。
「お茶を飲みましょう。大臣になっても、ここではいつも通りよ」
お茶を飲んだ。
「……おいしいですわね」
「でしょう?」
最初のお茶会と同じ言葉でしたわ。でも、あのときとは全然違った。あのときは敵意を飲み込みながら食べた菓子の味。今は——涙と一緒に飲んだ優しいお茶の味。
*
大臣に就任してまもなく、もう一つの知らせが届いた。
陛下と見黒様の、ご婚約。
宮廷中が騒いだ。「神託の力が失われるのでは」「大臣たちは反対したのでは」。声が飛び交っていた。
わたくしは、自分の部屋で、しばらく座っていた。
陛下。
わたくしが宮廷に来て、最初に目を奪われたお方。お茶の時間を調べ、菓子の好みを突き止め、廊下の光の入り方まで確かめた——あの頃のわたくしの全てだったお方。
今、そのお方が、見黒様と婚約された。
胸に手を当てた。
痛みは——なかった。
驚いた。痛まないのだ。あの頃のわたくしなら、きっと泣いていた。きっと怒っていた。「わたくしの方が先に好きでしたのに!」と叫んでいた。
でも、今のわたくしは知っている。あれは恋ではなかった。寂しさだった。居場所がなくて、温かい目をした人にすがっただけだった。
陛下は穏やかで、器が大きくて、この国を導くお方だ。あのお方のお傍に立てるのは、見黒様しかいない。それは、わたくしが一番よく知っている。だって——見黒様のお傍で、この七年間、あの二人を見てきたのだから。
陛下がお茶を飲むときの穏やかな目。見黒様が何かを仰ったときの、少しだけ目を細める笑み。あの二人の間にある空気は、最初から違っていた。わたくしがどれだけ陛下を追いかけても、あの空気の中には入れなかった。
でも、見黒様は別の椅子を用意して、わたくしを入れてくださった。
「綺麗ね」と仰って、お茶に呼んで、催しを任せて、手引書を書かせて、大臣にまでしてくださった。わたくしの居場所を作ってくださった。
見黒様は、友人だ。
こう言うと畏れ多いことかもしれないけれど——わたくしはそう思っている。あの方は、わたくしの一番の友人だ。
そして陛下は、わたくしが最初に「素敵だ」と思ったお方だ。
それぞれに大好きな二人が、結ばれる。
嬉しいに決まっていますわ。
見黒様にお祝いを申し上げに行った。
「見黒様。ご婚約、おめでとうございます」
「ありがとう、クラリッサ」
わたくしは背筋を伸ばした。言いたいことがあった。
「陛下と見黒様はお似合いですわ。ずっとそう思っておりました」
見黒様が少し驚いた顔をされた。
「あなた、陛下のことが好きだったでしょう?」
「ええ。憧れておりました。でも——」
笑った。自分でも驚くほど、晴れやかな笑顔が出た。
「今は、お二人の幸せが嬉しいんですの。それが全てですわ」
見黒様が、にこりとされた。
「今のクラリッサは、輝ける風のよう。爽やかで、華やかな香りがするわ。きっと、すぐにいい人が見つかるわね」
(……見黒様。それは、予言ですの?)
*
催事大臣として忙しい日々が始まった。
地方との連絡。新しい催しの認可。手引書の改訂。季節ごとの催しの準備。
補佐官がついた。
名をディートリヒという。文官出身の、真面目な男だった。わたくしより三つ年上。背は高くないが、姿勢が良かった。眼鏡をかけていた。字が綺麗だった。
最初の印象は——地味。
しかし、有能だった。
わたくしが「こうしたい」と言えば、翌朝には実現のための計画書が机に載っていた。わたくしが見落とした事務手続きを黙って済ませてくれていた。わたくしが走り回っている間、書類を整えて待っていてくれた。
三ヶ月一緒に働いて、気づいた。この人は、わたくしを支えるために来たのだ、と。
「ディートリヒ。あなた、いつも先回りしていますわね」
「大臣がお動きになった後の処理を、誰かがやらねばなりません」
(……それはそうですけれど)
「……それは、わたくしが散らかすから、ということですの?」
ディートリヒが眼鏡を押し上げた。
「大臣は嵐のようなお方です。嵐の後に道を整えるのが、私の仕事です」
(嵐。わたくしを嵐と。……否定できませんわね)
「しかし」
ディートリヒが、少しだけ声を落とした。
「嵐がなければ、何も変わりません。大臣の嵐は、この国に必要な嵐です」
(……この方は、わたくしのやり方を否定しませんのね)
*
半年が過ぎた。
ディートリヒの仕事ぶりに、文句のつけようがなかった。計画書は正確で、報告は簡潔で、わたくしの指示を一度で理解した。
しかし、それだけではなかった。
催しの前日、わたくしが遅くまで会場の確認をしていると、机の上に茶と菓子が置かれていた。ディートリヒが帰り際に用意していったのだ。何も言わずに。
雨の日には、わたくしの外套が掛けてあった。朝、わたくしより先に出仕して、掛けておいたらしい。
地方の催しの視察で馬車に乗るとき、荷物をすでに積み込んでくれていた。わたくしの分の水と食料まで。
「ディートリヒ。あなた、わたくしの世話係になったつもりですの?」
「いいえ、補佐官です」
眼鏡を押し上げた。表情は変わらない。
「補佐官の仕事に、菓子の手配は含まれますの?」
「大臣が空腹で判断を誤られるよりは、菓子を一つ用意する方が効率的です」
全部「仕事だから」で説明しようとする。菓子も外套も荷物も、全て「効率」で片づける。でもわたくしは知っている。ディートリヒがわたくし以外の誰かに菓子を用意しているのを、見たことがない。
*
ある夜、書類の整理が長引いた。
ディートリヒがまだ残っていた。
「もう帰りなさい。遅いですわ」
「大臣が残っておられるのに、先に帰るわけには」
わたくしは書類を取り上げた。
「命令ですわよ」
ディートリヒはひょいと書類を自分の机に戻した。
「命令に従わない権利は、補佐官にもあります」
(……頑固な人。この人は、普段は大人しいくせに、こういうときだけ頑固ですわ)
二人で書類を片づけた。終わったのは深夜だった。
廊下に出ると、ディートリヒが言った。
「大臣。お送りします」
「一人で問題ありませんわ」
ディートリヒが一歩、隣に並んだ。
「深夜です。お送りします」
(こんなところでも頑固ですのね)
並んで廊下を歩いた。月が窓から差していた。
「ディートリヒ」
足音が揃った。
「はい」
「あなた、なぜわたくしの補佐官を引き受けましたの」
ディートリヒが少し黙った。眼鏡の奥の目が、まっすぐ前を向いていた。
「催しの第一回を、見ておりました。客として」
わたくしは驚いた。
「あら」
「大臣が——あのときはまだ大臣ではありませんでしたが——取り仕切っておられるのを見ました。指示が的確で、何より、ご自身も動いておられた」
足が止まった。
「あのとき思いました。この方の後ろで書類を整える仕事がしたい、と」
(……第一回。あの最初の催し。わたくしが見黒様に言われて、初めて仕切った催し。あのとき、この人は客席にいたの)
「それは……仕事としてですの?」
ディートリヒが眼鏡を押し上げた。
「最初は、そうでした」
「最初は?」
月明かりの中で、ディートリヒの耳が赤くなっていた。眼鏡の奥の目は、まだまっすぐ前を向いていた。しかし、声だけがわずかに震えていた。
「……今は、少し違います」
廊下の空気が変わった。
「……クラリッサ大臣」
「ええ」
ディートリヒが息を整えた。
「不適切であれば、お忘れください」
(あら、なんだか嫌な予感がしますわね。いえ、嫌ではない。嫌ではないのだけれど)
ディートリヒが、まっすぐ前を向いたまま言った。
「あなたの嵐の、傍にいたいのです。仕事としてではなく」
廊下が静かだった。月だけが見ていた。
(……この人は。「嵐」と呼んでおいて、その嵐の傍にいたいと言う。普通、嵐からは逃げるものでしょう。それなのに、この人は嵐の中に立って、書類を整えていたいと言う)
……見黒様。
あなたもわたくしのことを風に喩えましたわね。……つまりこの人が、わたくしにとって……。
(見黒様が、わたくしに「綺麗ね」と仰ったとき。わたくしは、敵意を向けていた相手に美点を認められて、何も言えなくなりましたわ)
(今、わたくしは——この人に、「嵐」だと認められて、同じように言葉を失いかけている)
(わたくしの気の強さを。声の大きさを。派手さを。嵐だと呼んで、それでも傍にいたいと言ってくれる人が、いる)
「……ディートリヒ」
「はい」
わたくしは背筋を伸ばした。
「明日から、菓子は二人分用意なさい」
ディートリヒが顔を上げた。
「わたくしの分と、あなたの分ですわ。あなた、いつもわたくしの分しか用意しないですし。自分は食べていないでしょう」
ディートリヒの目が、大きくなった。
「それは……」
「お返事は」
ディートリヒが、深く息をした。それから、小さく笑った。わたくしが初めて見る笑顔だった。
「……かしこまりました。大臣」
「クラリッサ、と呼びなさい。今は勤務時間外ですわ」
ディートリヒの耳が、さらに赤くなった。
「……クラリッサ殿」
わたくしは半歩近づいた。
「殿はいりません」
ディートリヒはとうとう、顔全体が真っ赤になった。
「……クラリッサ、さん」
(まだ硬いですわね。まあよくてよ。ゆっくり慣れなさい)
月が綺麗な夜でしたわ。
明日、見黒様にご報告しなければ。
きっとあの方は「まあ、そう。おめでとう」と仰って、お茶を飲むのでしょう。それだけで十分ですわ。