作品タイトル不明
番外編4 嵐の日に会った人のこと
住処が崩れた日のことは、忘れない。
朝、山鳴りがした。地が揺れた。崖がせり出していた岩場が割れて、一族の集落の半分が谷底へ落ちた。死者は出なかったが、家が消えた。鍛冶場が消えた。冬を越すための蓄えが消えた。
一族は百と少し。山の民だ。雷とともに生き、雷とともに移る。人里には降りない。降りる理由がなかった。
しかし、もう理由がなかった。
長が言った。「南の国に庇護を求めよ」と。
正規の外交では間に合わない。冬が来る。雪が降れば、山を降りることもできなくなる。一族の鍛冶師は優れた技を持っているが、技があっても凍えれば終わりだ。
私が選ばれた。
雷とともに降る技を持つ者は、一族の中でも限られている。私は、その一人だった。
*
雷に乗るというのは、正確ではない。
雷の通り道を読み、その軌道に己の身を合わせる。雷が落ちる先に、先に到着する。外から見れば「雷とともに現れた」ように見えるが、実際には「雷より一瞬早く着く」という技だ。
危険がないわけではない。目標の場所を誤れば、地面にたどり着けずに空中で散る。知らない土地への降下は、賭けに近い。
しかし、賭けるしかなかった。
南の国の城を目指した。嵐の日を待った。嵐がなければ、雷に乗れない。三日待った。
三日目の夕方を過ぎ、嵐が来た。
*
最も良い雷を狙い、それに乗り、落ちた。
城の庭の大木の根元に、着地した。轟音。衝撃。視界が白く焼けて、一瞬何も見えなかった。
視界が戻った。
雨が打ちつけていた。かなり広い庭だった。石畳の広い庭。城の建物が周囲にある。回廊の下に人影がいくつも見えた。
そして——
目の前に、人が立っていた。
女だった。若い。背はそれほど高くない。黒い髪が長く、腰を越えて、雨に少し濡れていた。白い肌。傘を差していた。
もう一本の傘を、こちらに向けて差し出していた。
「濡れるわ。これをお使いになって」
私は、理解ができなかった。
雷とともに現れた異形の者に、最初にかけられた言葉が——「濡れるわ」だった。
怯えていない。驚いてもいない。まるで、最初から待っていたかのように立っている。この嵐の中、庭の真ん中で、傘を二本用意して。
片手には、螺鈿を敷き詰めた箱を抱えていた。
傘を、受け取った。ただそれだけのことだ。しかし、この一瞬で、この女が敵ではないことがわかった。
雨が、止んだ——もちろん正確には止んだのではない。傘が雨を遮っただけだ。しかし、その瞬間、息ができた。嵐の中で初めて、深く息ができた。一族の命が間に合わないという最中に張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。
そのおかげで、迷うことなく救援が出せそうだと思えた。
*
簡潔に話した。
山が崩れたこと。一族の住処が消えたこと。百と少しの民が行き場を失っていること。冬が来ること。正規の外交では間に合わないこと。だから、雷に乗って直接来たこと。
女は黙って聞いていた。
雨に打たれている。従者と思しき者が傘を差してはいるが、風が強く、黒い髪が顔に張りついている。しかし、動かない。微動だにしない。嵐の中に一本の杭のように立って、私の話を聞いている。
話し終えた。
女が、手元の螺鈿の箱を差し出した。
「そう。事情はわかったわ。……わたしが今あなたにお貸しできるのは、こけおどしのようなものだけ」
箱を開けた。中に、孔雀の羽があった。虹色に光る、美しい羽。雨の暗い光の中で、それだけが鮮やかだった。
「でもあなたならば、上手く扱えるはずよ」
こけおどし。
この女は、自分が差し出すものを「こけおどし」と呼んだ。
しかし、私にはわかった。この箱はおそらく宮廷の祭具だ。螺鈿の細工の精緻さ、孔雀の羽の保存状態。比類なき美しさを湛えるこれは、名のある人間が持つものだ。
「まじないの道具として宮廷に伝わるもの。あなたがこれを持って陛下に謁見すれば、わたしからの紹介だと伝わるわ。あとは、あなたの言葉次第」
私に任せる、と言っている。力を貸すが、決めるのはあなただ、と。
頭を下げた。深く。
「……感謝いたします」
顔を上げたとき、女が小さく頷いた。
雨が弱くなっていた。
*
陛下に謁見したのは、その日の夕刻だった。
螺鈿の箱を持って行った。門番が箱を見た瞬間、顔色が変わった。「見黒様の祭具」と呟いた。通された。あの女はやはり名のある者だったようだ。神託少女と呼ばれる、国へ神託をもたらす伝説の存在だという。
あれが……。ならば、この羽根を授けたのも神託によるものなのだろう。
陛下は穏やかな方だった。話を聞いてくださった。一族の窮状を伝え、孔雀の羽を見せた。陛下は一瞬だけ目を細めて、それから部下に「よきに計らえ」と仰った。
それだけだった。
翌月、一族は南の国の山岳地帯に受け入れられた。住む場所が与えられた。鍛冶場を建てることが許された。冬は越せた。
私は一族の者たちに、あの日のことを話した。
嵐の庭に立っていた女のこと。傘を差し出されたこと。「こけおどし」と呼んだ箱のこと。
長が聞いた。
「その女は、お前が来ることを知っていたのか」
「わかりません。しかし、傘を二本持っておられました」
長が黙った。
「……雷とともに来る者のために、もう一本の傘を用意していた、と」
「はい」
長が顔を上げた。
「その者の名は」
「見黒様、と呼ばれていました。黒い髪の、神託者だと」
長が、しばらく考えていた。「そうか」「言い伝えによる」「なればこそ」など、いくつか独り言を紡ぎ、それからこう言った。
「その方に、いずれ一族の礼を届けねばならぬ」
*
一族が山に落ち着いてから、鍛冶場が動き始めた。
南の国の鉄は悪くなかったが、私たちの技で打てばさらに良くなった。城下に鉄を納めるようになった。評判が広がった。
城下の者たちが、私たちのことを「雷鳥の鍛冶」と呼ぶようになった。
あの日から二年が経った。
私は城を訪れた。あの女に礼を言うために。
案内された部屋で、あの女は窓辺に座って本を読んでいた。黒い髪がさらに長くなっていた。
「あら。お元気?」
あの嵐の日と同じ声だった。穏やかで、何も構えていない声。
「おかげさまで。一族は、この国で穏やかに暮らしております」
あの女が本を閉じた。
「聞いているわ。鍛冶の腕がいいそうね。みんな喜んでいるわ」
頭を下げた。
「それは、あなたのおかげです」
少し間があった。
「わたしは傘を差し出しただけよ」
違う、と思った。
あの嵐の庭で、雷とともに現れた異形の私に、最初にかけられた言葉が「濡れるわ」だった。あの一言で、私は息ができた。
傘を差し出しただけ。そう仰る。しかし、あの嵐の中で傘を差し出せる人間が、どれほどいるだろうか。たとえ神託を授かったとして、雷とともに現れた見知らぬ者に、怯えもせず、構えもせず、ただ「濡れるわ」と言える人間が。
この方は、そういう方なのだ。
私が来ることを知っていたのか、それとも知らなかったのか。今でもわからない。しかし、どちらであっても、あの傘の意味は変わらない。
一族の間では、あの女の話は今でも語られている。
「嵐の日に、庭に立っていた女がいた。雷を恐れず、傘を差し出し、貴重なまじないの羽根一つで一族を救った」
若い者たちは、半分は伝説だと思っている。
私は知っている。全て本当だ。
あの女は——大いなる力などは無いのではないか。そう思わせるくらいに、貧弱そうな存在に見える。
しかし神託の力がないのならば、なぜ、嵐の日にあそこに居たのか。その説明は付かないが……。
ただの人間だとしても、嵐の中に立っていた。それだけのことが、一族の命と私の心を救ったのだ。それだけで、神託少女足り得る逸話であることは、真実だろう。