軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

番外編3 強面な不器用辺境伯と手を取り合って溺愛されるまで

婚約を破棄された日のことは、あまり覚えていない。

覚えているのは、おじ上——ベルント殿の顔が青かったこと。母が泣いていたこと。父が黙って窓の外を見ていたこと。

わたし自身は、不思議と泣かなかった。

婚約者の顔を思い出した。東方の貴族の子息。悪い人ではなかった。ただ、わたしに興味がなかった。それは最初から薄々わかっていた。

(まあ、そう……よね)

わたしは地味だった。

顔立ちは整っているとは言われたが、華やかさはなかった。気が利くとは言われたが、面白みはなかった。家の経営を任されるくらいには有能だったが、それは「嫁に出すには惜しい」と言われる程度の話で、「嫁にほしい」と言われる種類のものではなかった。

婚約を破棄されたあと、家の中が暗くなった。わたしが暗くしているのだと思った。

おじ上が見黒様に相談に行ったと聞いたときは、驚いた。見黒様。あの、神託少女の。あの方に、わたしのような小さな話を持ち込んだのか。

数日後、おじ上が帰ってきた。

「アカリ様が——見黒様が、辺境伯ヴァルター様との縁談をお勧めくださった」

辺境伯。北方の。陛下の従兄弟。

三十五歳。独身。

(……え、辺境伯?)

見黒様からの手紙が届いた。おじ上宛ではなく、わたし宛だった。

短い手紙だった。

『あなたのことは、あなたのおじ上から聞いたわ。アーデルハイトさんは聡明で、家の経営に長けた方だそうね。北方の暮らしは楽ではないかもしれないけれど、あなたの力が活きる場所だと思うの。ぜひヴァルター様と一度、お会いになってみて。合わなければ、それでいいから』

最後の一文が、少し嬉しかった。「合わなければ、それでいいから」。何となく見黒様は本心でそのように仰っていると伝わってくる。

思いきって、お会いすることにした。

北方への旅は、三日かかった。

街道を離れ、丘を越え、森を抜けると、荒野が広がっていた。風が冷たかった。秋のはじめだというのに、もう冬の匂いがした。

辺境伯の城は、城というより砦だった。石造りの、実用的な建物だった。花は咲いていなかったし、装飾もなかった。

(……ここで暮らすの?)

不安が募った。

門が開いた。

中から、男が出てきた。

大柄だった。肩幅が広かった。顎に無精髭があった。目が鋭かった。

(怖い人……いえ、強い人?)

第一印象は、それだった。

「……ヴァルターです。ようこそ」

声は低かった。しかし、想像していたより柔らかかった。

「アーデルハイトと申します。このたびは……」

強い風が吹いて、まともに挨拶ができなかった。

ヴァルター様が、風を遮るようにマントを広げてくださった。

「中へ。お茶を用意している」

お茶。この砦で、お茶。

わたしはお礼を言うタイミングも自己紹介するタイミングも見失ったまま、先をゆくヴァルター様の後を追った。

居間に通された。

居間は広かったが、簡素だった。石の壁、木の床、暖炉。飾りは何もなかった。

机の上に、お茶の支度がしてあった。

湯気の立つ急須。杯が二つ。それと——皿の上に、焼き菓子が三つ。

菓子の並べ方が、左に寄っていた。皿の真ん中ではなく。少し不格好だった。

「……自分で淹れた。待たせてすまない」

ヴァルター様が、ティーポットを持ち上げた。

手が、少し震えていた。

お茶を注いだ。杯から少しこぼれた。ヴァルター様が慌てて布で拭いた。

「……すまない」

(……あれ?)

怖い人だと思った。鋭い目。大きな体。無精髭。北方の砦を守る軍人。

でも、お茶を淹れる手が震えている。菓子の並べ方が不格好。こぼして謝る。

(この人、緊張してるんだ。わたしだけじゃないんだ)

お茶を飲んだ。少し濃かった。茶葉を多く入れすぎたのだろう。

「おいしいです」

本心だった。濃いけれど、温かかった。

ヴァルター様が、少しだけ肩の力を抜いた。

三日間、滞在した。見黒様の手紙に「お会いになってみて」と書いてあったから。

一日目。城の中を案内してもらった。

広かった。広いが、空いていた。部屋がたくさんあるのに、使われている部屋が少ない。一人で暮らしているのだ。従者は数人いるが、城の規模に対して明らかに足りない。

厨房を見て、驚いた。汚れてはいないが、整理されていなかった。鍋の置き場所が不統一で、調味料が棚の奥に押し込まれていた。

「……お料理はどなたが?」

「従者が作るが、大したものは出せない」

おそらく、家の切り盛りをする人がいないのだ。ヴァルター様は軍人だし、常駐しているものもメイドや執事ではなく兵士という感じがする。城の警備や領地の防衛はできても、暮らしの管理は手が回っていない。

二日目。領地を見せてもらった。

馬で丘の上に立った。北方の荒野が広がっていた。遠くに山脈が見えた。

「この先が国境だ。向こうはほとんど無人の原野で、ときどき蛮族が来る。……この領地を守るのが、俺の仕事だ」

ヴァルター様の横顔は、このとき初めて、軍人のそれだった。鋭い目が遠くを見ていた。

「……大変なお仕事ですね」

「慣れた。十五年やっている。これでも、陛下が治世し始めてからずいぶんと楽になったのだ」

十五年。二十歳からこの荒野を守り続けている。一人で。わたしと同じ年頃の時から……。

「ご結婚は……考えなかったのですか」

「考えなかったと言えば嘘になる。だが、こんな場所に来てくれる人がいるとは思えなかった」

ヴァルター様は、遠くの山を見たままだった。

「ここには何もない。城下の華やかさも、都の社交もない。あるのは、風と、石と、守るべき国境だけだ」

(……この人は、一人でいることに慣れてしまったのだ。慣れてしまったから、誰かを求めることをやめてしまったのだ)

三日目の朝。

出発の準備をしていたとき、厨房に立ち寄った。朝食の支度が出ていた。パンと、干し肉と、果物。並べ方がまた不格好だった。

従者に聞いた。

「これは、どなたが?」

「ヴァルター様が、今朝早くからご自分で」

(……ヴァルター様が、自分で朝食を用意した?)

従者が小さな声で付け加えた。

「昨夜遅くまで、菓子の焼き方を聞いておられました。明日のお客様のために、と」

テーブルの隅に、少し焦げた焼き菓子が置いてあった。

形が不揃いだった。一つだけ、大きすぎるのがあった。

(…………)

出発の挨拶をした。ヴァルター様は門の前に立っていた。大きな体で、不器用に頭を下げた。

「……短い間だったが、来てくれて嬉しかった」

「わたしも、楽しかったです」

心からそう思った。

帰りの馬車の中で、ずっと考えていた。

鋭い目。無精髭。大きな手。

震える手で注いだお茶。左に寄った菓子。こぼして謝る姿。

十五年間、国境を守り続けた人。

夜遅くまで菓子の焼き方を聞いていた人。

焦げた、形の不揃いの、焼き菓子。

おじ上に手紙を書いた。

『もう一度、お会いしたいです』

二度目の訪問は、一ヶ月後だった。

今度は、一週間いた。

厨房を整理した。鍋の置き場所を決めた。調味料を手の届く位置に移した。従者たちに、効率の良い段取りを教えた。

また、冬を越すための防寒具や毛布の数を揃え、馬たちの飼葉についても話を聞いて回った。

「アーデルハイト殿……そこまでしていただかなくても」

「ご迷惑でなければ、やらせてください。こういうことが好きなんです」

素直な気持ちだった。わたしは家を切り盛りするのが好きだった。ものが正しい場所に収まり、人が無駄なく動けるようになること。それを見るのが好きだった。

この城には、わたしの力が活きる場所があった。

三度目の訪問は、三ヶ月後だった。

二週間いた。

城の運営を見直した。食料の備蓄計画を立てた。冬に向けた薪の手配を提案した。従者たちの休みの仕組みを作った。

ヴァルター様は、わたしがやることを止めなかった。口も出さなかった。ただ、夕方になると「お茶にしよう」と声をかけてくれた。

お茶は、相変わらず少し濃かった。

でも、杯からこぼれることはなくなっていた。

四度目の訪問の前日、おじ上に言った。

「おじ上。わたし、北に行きます」

おじ上が杯を置いた。

「また訪問か」

首を振った。

「いいえ。ヴァルター様の、妻となります」

おじ上が目を見開いた。

しばらく黙っていた。それから、解けるように笑った。

「……見黒様は、やはりお見通しだったのだな」

(見黒様のことは、わからない。でも、あの方の手紙に書いてあった。「合わなければ、それでいいから」と。合わなかったら帰ればよかった。でも、合った。それだけのことだ)

北方の城に着いた日、ヴァルター様が門の前に立っていた。

いつもと同じ。大きな体。鋭い目。

でも、いつもと違ったのは、無精髭がさっぱりと無くなっていたことと。

手元にある美しいもの。

お花だった。

荒野に咲く、小さな白い花。たくさん摘んできたのだろう、手が一杯だった。束ねるのが下手で、半分くらいばらけていた。

「……その花、どうされたんですか」

「朝、摘んだ。……こういうとき、花を渡すものだと聞いた」

(誰に聞いたんだろう。従者かしら。それとも、本で読んだのかしら)

花を受け取った。半分ばらけた、不格好な花束。

涙が一つ二つと溢れてきた。

婚約を破棄されたときは泣かなかったのに、不格好な花束はどうしようもなくわたしの心を彩った。

「……どうした。花が嫌だったか」

「違います。嬉しいんです」

ヴァルター様が眉を寄せた。

「嬉しいのに泣くのか」

花束を胸に抱いた。

「嬉しいと、泣いてしまうんです」

ヴァルター様が困った顔をしていた。大きな体で、おろおろしていた。

この人のそばで暮らそうと思った。

この不器用な人の、お茶を飲もうと思った。

見黒様に、お礼の手紙を書いた。

『見黒様。おかげさまで、わたしは居場所を見つけました。

北方の暮らしは厳しいですが、やることがたくさんあって楽しいです。

ヴァルター様は不器用ですが、優しい人です。お茶を淹れるのが下手ですが、毎日淹れてくれます。

見黒様がおっしゃった通りでした。わたしの力が活きる場所でした。

ありがとうございます。』

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後で聞いた話だが、この手紙を読んだ見黒様は、にこにこしながらエルに言ったそうだ。

「うまくいったわね。お茶の話が出ているもの」

エルが首を傾げる。

「見黒様。お茶が出ていると、なぜうまくいったとわかるのですか」

「お茶を一緒に飲めるということは、その人の傍にいて落ち着くということよ。お酒無しで語らうことができるということ。それは、とても大事なことなの」

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見黒様は、わたしのことなど何も知らない。顔も見たことがない。おじ上の話を聞いて、辺境伯を紹介しただけだ。

でも、あの方の一言で、わたしの人生は変わった。

婚約を破棄された日、わたしは泣かなかった。

花をもらった日、わたしは涙が溢れた。

それだけの違いで、わたしは今、ここにいる。