作品タイトル不明
第十九話 星はあたらしく生まれるの
見黒様が夜の池に立たれたのは、秋の晩餐会の数日前のことだった。
あの日、わたくしは少し遅い時間にお部屋へ伺った。お茶の追加をお持ちするためだった。しかし部屋は空だった。本が開いたまま文机に置かれていた。
窓の外を見ると、庭に人影があった。
見黒様だった。
池の前に立っておられた。夜の池の前に。
わたくしは息を呑んだ。昼の池はいつものことだ。しかし、夜に池に向かわれたのは初めてだった。
月が出ていた。秋の月が高い位置にあった。池の水面が月光を受けて、銀色に光っていた。
見黒様の黒髪が、月の光の中にあった。昼間とは全く違う色だった。青でもなく、黒でもなく、夜そのものの色だった。
見黒様はしばらく水面を見下ろしておられた。
それから、空を見上げられた。
また水面に目を落とされた。
空の星が、水面に映っていた。池の中に、もうひとつの夜空があった。
わたくしは回廊から見ていた。声をかけることはできなかった。
見黒様が、小さく何かを呟かれた。
距離があって聞こえなかった。しかし、見黒様の口元が動くのは見えた。何かを——見つけたような顔をされていた。
しばらくして、見黒様は部屋にお戻りになった。わたくしは何も見なかったふりをしてお茶をお出しした。
見黒様は少し上機嫌だった。
「エル。夜の池、なかなか良いわよ」
「……左様でございますか」
「月が映るの。それから星も。昼間は見えないものが、夜には見えるわ」
わたくしは日誌に書いた。
「見黒様が初めて夜の池に立たれた。昼には見えないものが夜には見えると仰せられた。見黒様の水鏡は、昼と夜の両方を持つことになった」
*
晩餐会は、その数日後だった。
秋の晩餐会。陛下の御前で、大臣や家臣たちが席を連ねる、季節ごとの恒例の宴だ。見黒様も出席されていた。白い衣に黒い髪。燭台の明かりの中で、見黒様の髪は橙色の光を受けて、いつもとは少し違う色に見えた。
宴は和やかに進んでいた。
食事が一段落した頃、大臣の一人が何気なく口にした。
「東の彼方のレヴァン王国が滅んで、もう二十年になりますか」
「ええ。栄華を極めた国でしたが……内乱と疫病であっけなく。あれほどの大国が、わずか数年で崩れるとは」
「まさに栄枯盛衰でございますな」
食後の雑談だった。誰もが杯を傾けながら、遠い国の遠い話をしていた。
見黒様は黙って聞いておられた。
杯を少し傾けておられた——見黒様がお飲みになるのは果実水だが、杯を持つ仕草が、どういうわけか酒を嗜んでおられるように見えた。
大臣たちの話がひと区切りついた。
ほんの少しの間。
見黒様が、すっと窓の外に目をやられた。
夜空だった。秋の夜空に、星が散っていた。
見黒様が口を開かれた。
「……星は、新たに生まれる」
間。
「その姿は何においても美しい」
もう一拍の間。見黒様が窓の外の星から視線を戻されて、ほんの少し微笑まれた。
「きっと祝福されたものになるわ」
晩餐の場が、静まり返った。
杯を持つ手が止まった者がいた。箸を置いた者がいた。息を呑んだ者がいた。
見黒様はそれ以上何も仰らなかった。窓の外の星を見ておられた。燭台の光が黒髪の上を滑っていた。
誰も、何も言えなかった。
レヴァン王国の話をしていたのだ。滅びた国の話を。そして、見黒様が仰った。「星は、新たに生まれる」と。
滅びの話の直後に、再生を。終わりの話の直後に、始まりを。
あの言葉は、何を意味しているのか。
大臣たちは顔を見合わせた。しかし、誰もそれ以上問うことはしなかった。見黒様に説明を求めることは、この宮廷では憚られた。見黒様の言葉は、時間が経ってから意味が明らかになる。それを五年間で全員が学んでいた。
晩餐は、そのまま静かに終わった。
*
あの夜から三週間が経った。
東方からの早馬が城に到着したのは、朝のことだった。
廊下を走る足音が聞こえた。尋常ではない足音だった。
大臣が飛び込んできた。
「陛下! レヴァン王国、復活の狼煙が上がりました!」
その報告の詳細を聞くために謁見の間に、大臣と家臣が集まった。見黒様も。わたくしも見黒様のお傍に控えた。
「亡き国王の遺児が、東の辺境にて兵を挙げました。新たな地にて即位の宣言を……! 名はフェリクス。幼くして落ち延びた王子が、二十年の時を経て立ち上がったのだと」
大臣たちの顔色が変わった。
フェリクス。その名は古い言葉で「祝福された者」を意味するとのこと。
そして全員が、あの夜のことを思い出した。
「星は、新たに生まれる」——見黒様は、滅んだ国が生まれ直すことを予見しておられた。
「きっと祝福されたものになるわ」——王子の名前すらまだ誰も知らなかった夜に、その名の意味を口にしておられた。
大臣の一人が、震える声で言った。
「見黒様は、三週間前のあの晩にすでに……!」
全員の視線が見黒様に集まった。
見黒様は、少しだけ首を傾げられた。
「ええ、そう」
いつもの返答だった。
しかし、もう誰もそれを「何も知らなかった」とは解釈しなかった。
*
この日を境に、見黒様の言葉に対する宮廷の態度が変わった。
見黒様が何か仰ったとき、大臣たちはまずその場で解釈しようとしなくなった。代わりに、記録した。一字一句、正確に。そして待った。数日後、数週間後、数ヶ月後に、その言葉の意味が明らかになることを。
「見黒様の言葉は、時差で届く」——グレン殿がそう名づけた。
わたくしは日誌に書いた。
「見黒様は三週間前の晩餐にて、レヴァン王国の遺児挙兵を予見しておられた。あの夜、星を見上げながら『星は新たに生まれる』と仰り、そして『きっと祝福されたものになる』と仰った。王子の名はフェリクス——祝福された者。見黒様はその名すらご存じだったのだ。見黒様の目は、時を超える」
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夜の池に行った。
前から気になっていたのだ。昼の池は毎日行っている。でも夜はまだだった。池を見つけたあの日に「いつか夜にも来よう」と思っていた。
秋の夜だった。月が出ていた。
池の前に立った。
(……おお)
全然違った。昼とは全然違った。
水面が銀色に光っていた。月が映っていた。まんまるの月が、池の中にもう一つあった。そして、その周りに星が映っていた。池の中に夜空がまるごと沈んでいた。
(これは……すごいわ。昼は自分の顔が映る鏡だけど、夜は空ごと映る鏡だ)
しばらく見ていた。
水面に映った星が、風で少しだけ揺れた。揺れるたびに、星の光が伸びたり縮んだりした。
雲が流れてきた。水面の星が一つ隠れた。
雲が過ぎていって。
星が、また現れた。
(あ)
なんだか、新しく生まれたみたいに見えた。雲に隠れて、また出てきただけだ。でも、水面の中では、星が消えて、また光った。まるで今生まれたみたいに。
(……綺麗だな)
綺麗だった。ただ、綺麗だった。
(この感じ、覚えておこう)
部屋に戻ったら、エルがお茶を持ってきてくれた。
「エル。夜の池、なかなか良いわよ」
「……左様でございますか」
「月が映るの。それから星も。昼間は見えないものが、夜には見えるわ」
(夜の池、レパートリーに加えよう。昼は自分確認用、夜は星鑑賞用。完璧な使い分けだわ)
*
数日後、晩餐会だった。
秋の恒例のやつ。食事は美味しかった。果実水も美味しかった。青い実の焼き菓子も出た。
食後、大臣たちが雑談を始めた。
「東の彼方のレヴァン王国が滅んで、もう二十年になりますか」
「ええ。栄華を極めた国でしたが……」
滅びた国の話だった。聞きながら、ふと、あの夜のことを思い出した。
夜の池。雲に隠れた星。また現れた星。消えたと思ったものが、また光った。まるで新しく生まれたみたいに。
あの光景が、頭の中に浮かんだ。
大臣たちの話がひと区切りついた。
窓の外に目をやった。夜空。星が出ていた。
「……星は、新たに生まれる」
間。
「その姿は何においても美しい」
(あの夜の池で見たまんまだ。雲に隠れて、また出てきた星。消えたように見えて、消えていなかった。また光った。あれは綺麗だった)
窓の外から視線を戻して、少しだけ笑った。
「きっと祝福されたものになるわ」
(新しく生まれるものは、祝福されるべきよね。赤ちゃんが生まれたらおめでとうって言うでしょう。それと同じ)
場が静まり返った。
(お、静まった。余韻がある。いいぞ〜〜〜! 結構意味深なこと言う美少女になれたんでは?!)
窓の外の星を見ていた。燭台の光が髪の上を滑っているのが、視界の隅で感じられた。
満足だった。
*
三週間後、なぜか宮廷が大騒ぎになっていた。
「亡き国王の遺児が、東の辺境にて兵を挙げました。新たな地にて即位の宣言を……! 名はフェリクス。幼くして落ち延びた王子が、二十年の時を経て立ち上がったのだと」
(フェリクス。いい名前ね。……あれ、こっちの古語で「幸福」とか「祝福」って意味だったような。……わたし晩餐で「祝福されたものになる」って言ったっけ。偶然って怖いわね)
大臣たちが来た。全員すごい顔をしていた。
「見黒様! 三週間前のあの晩にすでに……!」
「ええ、そう」
大臣たちが口々に言った。「星は新たに生まれる」「つまり亡国が生まれ直すことをご存じだった」「しかもフェリクスという名まで——『祝福されたものになる』と仰ったではないか!」
(あれは夜の池で見た星がきれいだっただけなんだけど)
「見黒様。もっと前からご存じだったのであれば、なぜあの晩だったのですか」
エルが聞いた。
(なぜって、あの夜の池の光景を思い出したのがあのタイミングだっただけよ。大臣たちが滅びた国の話をしてたから、消えてまた光った星のことが浮かんだの)
「何事にも、機というものがあるの」
エルが息を呑んだ。
「……かしこまりました」
(まあ嘘は言ってないわよね。タイミングって大事だもの)
部屋に戻って、本を開いた。
(しかし亡国の王子か。面白そうな話だわ。どんな人なのかしら。会ってみたいな。前世の漫画だと、亡国の王子って大体かっこいいのよね)
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