軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 火傷が先です

まずい、と思った時には、もう遅かった。

ミレイユの指先が持ち手の輪の中でわずかに滑る。

ソーサーの縁がかすかに鳴って、白いカップが傾いた。

琥珀色の紅茶が、弧を描いてこぼれる。

「きゃ……っ」

短い悲鳴。

テーブルクロスへ散る茶色のしみ。クリーム色の袖口に飛び散る熱い滴。ミレイユが反射的に手を引いた拍子に、ソーサーまで危うく揺れ、周囲の令嬢たちが一斉に息を呑んだ。

「まあ!」

「フォルナ様!」

「お手元が……」

会場の空気が、優雅さを失ってざわつく。

けれど最初の数秒、皆が見ていたのはミレイユの手元だけではなかった。

視線のいくつかが、まっすぐロザリア様へ向かう。

嫌な流れだ。

ミレイユは立ち上がりかけて、でもうまく立てず、濡れた袖を見て顔を青くした。紅茶は手の甲にもかかっている。深い火傷になるほどではないかもしれない。けれど少なくとも、かなり熱かったはずだ。

「だ、大丈夫ですわ! 私、平気で……」

「平気ではありませんわ。赤くなっていらっしゃるもの」

「冷やした方が」

「まあ、どうして急に」

どうして急に。

その言葉がもう危ない。

そしてやはり、誰かが言ってしまった。

「ロザリア様に見られて、緊張なさったのではなくて……?」

小さく、けれどしっかり届く声だった。

ざわめきが一段深くなる。

ああ、もう駄目だと思った。

事故の原因を探す顔が並んでいる。火傷の心配より先に、誰のせいかを見つけたがっている顔だ。しかも誰も、自分が意地悪を言っているとは思っていない。

ただ理由を口にしただけ。

ただ、そう見えたから言っただけ。

その“だけ”がいちばん怖い。

ロザリア様が立ち上がる。

椅子が床を引く、硬い音。

深紅の瞳がまっすぐ前を向く。その視線の先にいるのは、さっきの言葉を口にした令嬢ではない。ミレイユでもない。この場そのものだ。手当てより先に意味づけへ走ろうとする空気、そのもの。

「くだらないことを――」

そこで私は、一歩前へ出た。

「今は手当てが先です」

声は思ったよりよく通った。

私自身が少し驚くほど、はっきりと。

一瞬、全員が止まる。

話の流れを断ち切るには、たぶんあれしかなかった。

私はそのままミレイユの席まで進む。

「フォルナ様、失礼いたします。お手を」

「あ、え……」

「赤くなっています。すぐに冷やしましょう」

ミレイユの手は、見た目以上に熱を持っていた。袖口も濡れている。このまま布が肌へ張りつけば厄介だ。私は近くの給仕へ顔を向ける。

「お水を。できれば清潔な布もお願いします。早く」

「は、はい!」

給仕がはっとして動く。

ようやく、会場の空気が“断罪の文脈”から“事故対応”へ向きを変え始めた。

「無理に袖を引かないでください」

私はミレイユへ言う。

「布が張りつくと痛みます。少しだけそのままで」

「は、はい……」

「指先は動かせますか」

「ええ、と……少し」

「結構です。焦らなくて大丈夫です」

その時、背後からロザリア様の声が落ちた。

「ええ、そうよ。紅茶は熱かったでしょう」

私は顔を上げた。

ロザリア様はまだ立ったままだ。

けれど、さっき出かかった言葉の鋭さはもうない。短く、きっぱりしていて、ちゃんと“今ここで必要なこと”だけを言っている。

それだけで、場の重心が少し動いた。

「まず冷やしなさい」

ロザリア様は続ける。

「話はそのあとでいいわ。ドレスより手が先よ」

ああ。

この一言だ。

それが言えるのなら、今日のお嬢様は勝てる。

「お水を持ってまいりました!」

給仕が駆け寄ってくる。私は受け取ったボウルに布を浸し、軽く絞った。

「フォルナ様、少し冷たいですが」

「だ、大丈夫です……っ」

「我慢はなさらないでください」

私はミレイユの手の甲へそっと布を当てた。彼女が小さく息を呑む。やはりかなり熱かったのだろう。周囲の令嬢たちも、ここでようやく本当に心配する顔になった。

「赤みが強いですわ」

「医務室を呼んだ方が」

「跡にならないといいけれど……」

言葉の向きが変わった。

ロザリア様のせい、ではなく、ミレイユの手元へ。

それだけで十分だった。

アルベルト殿下が、ここでようやく一歩前へ出る。

「医務室へ連絡を」

近くの男子生徒へそう指示してから、ミレイユの方を向く。

「フォルナ嬢、大丈夫か」

「は、はい……申し訳ございません」

「謝る必要はない」

殿下は一度言葉を切って、少しだけ眉を寄せた。

「熱かっただろう」

遅い。

でも、遅くても今はその方向でいい。

ミレイユはまだ青い顔をしていたが、最初の混乱よりは呼吸が落ち着いてきている。私は布の位置を変えながら、濡れた袖口が肌へ張りついていないか確かめた。

「痛みは強いですか」

「少し……ひりひりします」

「では冷やしながら医務室へ行きましょう」

「ご、ご迷惑を……」

「今はそういうことをお考えにならなくて結構です」

言ったあと、私は背筋に視線を感じた。

振り返らなくても分かる。さっき“ロザリア様に見られて緊張したのでは”と言った令嬢たちだ。

だが今、彼女たちはもうその言葉を続けられない。

だって実際に熱かったのだから。火傷の可能性があって、手当てが必要なのだから。

物語より先に現実を置かれると、人は急に続きを言いづらくなる。

そこが、この場の急所だった。

「リネット」

「はい」

「医務室へは私の侍女もつけなさい」

「承知しました」

「あと、替えの袖を」

「すぐに」

短い指示。

でも十分だ。

ロザリア様は立ったまま、ミレイユを見ている。威圧ではない。確認だ。ちゃんと手が冷やされているか、周囲がまだ余計なことを言い出さないか、その両方を見ている。

たぶん本人は無意識だろう。

無意識だけれど、今その視線は“怖い”ではなく“見捨てない”に近い。

近くにいた年長侍女へ目配せし、私は素早く指示を渡した。

「替えの袖と、念のため薄い羽織を。医務室へご案内をお願いします」

「承知いたしました」

「冷やすのを優先してください」

「分かっております」

ミレイユが立ち上がろうとした時、足元が少しふらつく。私はすぐに支え、反対側から年長侍女が腕を添えた。

「ゆっくりで大丈夫です」

「……はい」

ミレイユが小さく息を整え、そして恐る恐るロザリア様の方を見る。

「あの、ロザリア様……」

「後でいいわ」

ロザリア様は即座に言った。

「今は手を冷やしなさい」

短い。

けれど今のは、ちゃんと届いた。

ミレイユは目を丸くしたあと、ほんの少しだけ、ほっとしたように頷いた。

「……はい」

そのやり取りを見た瞬間、私はようやく胸の奥の硬さが少しだけゆるむのを感じた。

ぎりぎりだった。

ほんとうに、ぎりぎりだった。

もし、さっきのままロザリア様が「くだらないことを言っている場合ではないでしょう」と言い切っていたら。

内容は正しくても、きっとその一言だけが場に残った。

“可憐なミレイユに厳しいロザリア”という、あまりにも安い物語が完成していたはずだ。

でも今は違う。

先にあったのは火傷だ。

熱い紅茶だった。

手当てが必要だった。

そこへ戻せた。

「皆さま、少々お騒がせいたしました」

取りまとめ役の令嬢が、ようやく場を整えようと口を開く。

けれど、その声音にはさっきまでの余裕が少し欠けていた。もう誰も、簡単に“誰のせいか”の話へ戻れないのだ。

ミレイユは年長侍女に付き添われて会場を出る。

アルベルト殿下はその背を見送り、それからようやくロザリア様へ視線を向けた。何か言いたそうだったが、今はまだ言葉にならないらしい。

言えばいいのに、と私は少しだけ思う。

でも、今はそれを待つ場面ではない。

私がロザリア様のところへ戻ると、お嬢様は低く言った。

「リネット」

「はい」

「先ほどの」

「はい」

「……助かったわ」

私は瞬きをした。

ロザリア様はまっすぐこちらを見ていない。けれど、今のは聞き間違いではない。

「光栄です」

「調子に乗らないで」

「少しだけなら」

「駄目よ」

その一言に、いつもの調子がほんの少し戻っていた。

私は小さく息をつき、乱れたテーブルの端へ視線をやる。しみの残ったクロス、少し傾いたソーサー、置き直されたカップ。優雅だった茶会は、まだ完全には立て直っていない。

けれど、少なくとも今ここにあるのは“事故のあとの気まずさ”であって、“悪役令嬢が可憐な令嬢を泣かせた場面”ではない。

そこは守れた。

そして、その真ん中に立っていたのはリネットだけではない。

最後にあの一言を選んだのは、ちゃんとロザリア様自身だ。

私はあらためて背筋を伸ばし、お嬢様の半歩後ろへ戻る。

まだ終わっていない。

でも、流れは切れた。

そう確信できるだけの手応えが、確かにあった。