作品タイトル不明
第9話 椅子を動かす朝
午前四時半。目が覚めた。
窓の外はまだ暗い。冬の夜明けは遅い。星がいくつか残っている。東の空の端だけが、ほんの少し灰色がかっている。あと一時間もすれば、あの灰色が藍になり、藍が白になり、白が橙になる。
寝台の横に外套をかけてある。作業場の鍵は昨夜のうちにカタリーナから預かっている。「朝の点検報告を作業場の机に置いておいて」と頼まれたから。
──それは事実だ。
事実だが、報告書を置くだけなら三分で終わる。三分の仕事のために四時半に起きる技師がいるとすれば──それは、三分以外にやりたいことがある技師だ。
◇
廊下は冷えている。石の床が足裏に刺さるように冷たい。靴を履いても伝わってくる。冬の朝の、骨まで沁みる冷たさだ。
作業場の扉を開けた。蝋燭を灯す。昨夜の蝋燭の匂いが、まだ薄く残っている。蝋と、紙と、インクの匂い。カタリーナが夜遅くまで図面を引いていた名残の匂い。
朝の光はまだ弱い。東の窓から、薄い灰色の光が差し込んでいる。あと一時間もすれば太陽がここまで届く。あと一時間もすれば──カタリーナが堤防の点検から戻ってきて、泥だらけの長靴を脱いで、ここに座る。
机の上に報告書を置いた。流速データの最新値。護岸の点検結果。数値を整然と並べた紙。昨日の夜、蝋燭の下で書いた。三分で済む仕事。
、椅子を見た。
カタリーナの椅子。図面を広げる時にいつも座る、樫の椅子。昨日の位置は机の正面。窓から離れている。
立ち上がった。椅子の背を掴んだ。木の手触り。冷たい。冬の朝の石みたいな冷たさ。
引いた。窓際に。日が当たる位置に。
カタリーナは毎朝、堤防の点検から戻ってすぐに作業場に入る。泥を落として、長靴を脱いで、まだ冷えた体のまま椅子に座る。手がかじかんでいる。頬が赤い。吐く息が白い。
窓際なら、朝日が背中に当たる。冬の日差しは弱いが、ないよりはましだ。少しでも体が温まる。少しでも、手のかじかみが和らぐ。
(それだけのことだ。合理的な理由がある。換気の確認のついでに、部屋の配置を最適化しているだけだ)
嘘だ。
合理的な理由など、後から付けた言い訳だ。本当の理由は、この人に寒い思いをさせたくない。それだけだ。技術的な根拠はない。計算式もない。数字では証明できない。
◇
技師は形で示す。言葉ではなく。
五年間の書簡で「お体を大切に」としか書けなかった。図面をカタリーナの側に向けて置くことしかできなかった。報告書に名前を明記することしかできなかった。約束の時間に一分も遅れずに来ることしかできなかった。
全部、言葉にできないものの代わりだった。
「会いたい」と書けなかったから、約束の時間を守った。「あなたの仕事は素晴らしい」と言えなかったから、報告書に名前を書いた。「寒くないですか」と聞けなかったから、椅子を動かした。
書簡の末尾の一行。図面の向き。約束の時間。報告書の名前。椅子の位置。
全部、同じものだ。
声にならない声。形にしかできない言葉。技師の語彙は数字と図面と石積みしかないから、それ以外の方法で伝えるしかない。
堤防の上で手を握った日、「計算式はない」と言った。「これが正しいかどうか、数字では出せない」と。あの日、初めて、数字を手放した。計算式のない言葉を、口にした。
けれど日常に戻れば、やはり数字の方が楽だ。椅子の位置を十五センチ動かす。窓際の日照角度を計算する。朝日が椅子の背に当たる時刻を逆算する。、そういうことなら、できる。
「好きだ」とは言えない。「寒くないですか」すら聞けない。
けれど椅子は動かせる。
今は、椅子を動かすことができる。毎朝。誰にも言わず。
気づかれなくてもいい。気づかれない方がいい。
(気づかれたら何と説明する。「換気の確認です」。嘘だ。嘘だけれどカタリーナは追及しないだろう。追及しないまま、窓際の椅子に座って、朝日を背に受けて、図面を広げるだろう)
それでいい。
◇
エーリヒに見破られた。
あの子の目は鋭い。法律書の条文を読み解くのと同じ目で、椅子の位置を読み解いた。掃除は午後なのに、毎朝椅子が窓際にある。それを十歳の目が見逃すはずがなかった。
朝食の席。
「先生は母上より先に起きて、作業場の椅子を窓際に動かしているんです。毎朝」
紅茶のカップが止まった。紅茶の水面が揺れていない。指先が白くなるくらい、カップを握りしめている。
リーゼが「ニコラウスはおかあさまのいすをうごかしてるのー?」と無邪気に聞いた。
「……点検のついでに、部屋の換気を確認しているだけです」
声は平静だった。平静を装った。けれど指先が白くなるくらいカップを握りしめている。
カタリーナが言った。
「そうですか。、ありがとうございます、換気の確認」
突っ込まなかった。
(……分かっているのだ。この人は)
全部分かった上で、受け取ってくれている。嘘を嘘と知りながら、嘘のまま受け取ってくれている。追及しない優しさ。不器用な技師の不器用な朝を、そのまま受け入れてくれる優しさ。
エーリヒが私を見て、ほんの少しだけ目を細めた。全部見ている目だ。
(あの子は、母親のために椅子の秘密を暴いたのではない。技師に「なぜ自分で言わないのですか」と問うためだ)
あの問いに、まだ答えていない。
◇
翌朝。午前四時半。
作業場の扉を開けた。
椅子は、昨日の帰りに机の正面に戻されていた。カタリーナが片づけたのだろう。いつもの位置。窓から離れた位置。
また引いた。窓際に。
明日もまた戻されるだろう。明日もまた引くだろう。
毎朝。言葉にしなくても。気づかれていても。バレていても。
椅子を動かす。
それが、技師の、不器用な朝だ。
東の窓が、少しだけ明るくなっていた。灰色が藍に変わり始めている。あと少しで、朝日が来る。
あと少しで、カタリーナが帰ってくる。泥だらけの長靴で。
その時に、窓際の椅子が温まっていれば。
椅子の背もたれに、手を置いた。木はまだ冷たい。けれどあと一時間もすれば、朝日が温めてくれる。
技師には待てる。堤防を設計する時も、石が安定するのを待った。苔が生えるのを待った。数字が合うのを待った。
椅子が温まるのも、待てる。毎朝。何百回でも。