軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 安宿の窓

窓の外に、丘は見えない。

安宿の二階。王都の外れ。小さな窓からは、隣の建物の壁しか見えない。灰色の壁。ひび割れた漆喰。雨染みが黒い筋を引いている。誰も修繕しない壁。誰も見ない壁。

──俺みたいだ。

ルートヴィヒ・フォン・グラーフェンベルク。

いや。「フォン」はもうない。爵位は剥奪された。辺境伯の椅子は空っぽで、あの領地は王家直轄領になった。グラーフェンベルクの名を名乗る法的根拠も、もはや曖昧だ。

ルートヴィヒ。それだけの名前になった。

かつて「文武両道の辺境伯」と呼ばれた男が、壁しか見えない窓の前に座っている。安宿の寝台は硬い。毛布は薄い。蝋燭は安物で、煤の匂いがする。

(……カタリーナの蝋燭は、いつもきれいに燃えていたな)

執務室の蝋燭。あの蝋燭は良い品だった。芯が均一で、炎がまっすぐに立つ。──誰が選んでいたのか。マルタだろう。いや、カタリーナ自身だったかもしれない。蝋燭の品質まで管理していた人だ。帳簿の一銭の狂いも見逃さなかった人だから。

俺はあの蝋燭の灯りの下で、何をしていた。

何もしていなかった。月の半分は王都にいた。残りの半分も、執務室の椅子に座って印を押すだけだった。帳簿は読まなかった。堤防には行かなかった。水門の開閉日程すら知らなかった。

全部、カタリーナがやっていた。

テオが学園に入った日のことを思い出す。

門の外に立っていた。入る資格がなかった。鉄格子の向こうに、テオの小さな背中が見えた。新しい制服。ロゼッタが仕立てたものだろういや、もうロゼッタはいない。あの制服は誰が用意したのか。テオが自分で。

母方の姓──メルツの名前で。平民枠で。学力試験を受けて。

俺が認知の手続きをしていれば、テオはグラーフェンベルクの姓で入学できた。貴族子弟の枠で。父親の保証で。

しなかった。面倒だったからだ。公にしたくなかったからだ。ロゼッタとの関係を、書類という形で残したくなかった。逃げ道を塞ぎたくなかった。

その「面倒」が、九つの子供の足枷になっている。

テオが振り返った。目が合った。何か言おうとした。「頑張れ」とか。「困ったら手紙を書け」とか。

声は届かなかった。距離があったから。

、距離だけではない。十年間作った距離だ。

ロゼッタが出ていった。

数ヶ月前のことだ。朝起きたら、荷物と一緒にいなくなっていた。置き手紙が一通。テーブルの上に。蝋燭の蝋が固まった跡の横に。

『もう、ここにいる意味がありません。あなたには何も残っていないのだから。テオのことは、あの子自身が決めるでしょう。さようなら』

読んで、テーブルの上に戻した。

怒りはなかった。当然だと思った。

ロゼッタは「辺境伯ルートヴィヒ」の傍にいたのであって、安宿の「ルートヴィヒ」の傍にいたのではない。爵位がなくなり、金がなくなり、人脈がなくなれば、この女にとって、俺は用済みだ。

(……カタリーナは違った)

辺境伯領で。月の半分が空席の執務室で。十年間仕事をした。爵位のためではない。金のためでもない。あの領地の領民のために。堤防のために。帳簿の数字のために。

あの人は、俺がいなくても領地を回した。俺がいない方が、うまく回ったかもしれない。

ロゼッタは、俺がいないと何も回せなかった。

どちらが本当のパートナーだったのか。

分かってた。分かってたんだ、ずっと。分かっていて。いや、分かりたくなかったんだ。分かったら俺が終わるから。終わってたんだけど。とっくに。

手紙を書いている。テオへの手紙。何通目か、もう数えていない。

返事は来ない。来なくていい。来なくても書く。

書くことだけは、できる。声が届かなくても。門の外からでも。爵位がなくても。金がなくても。

ペンとインクと便箋。安宿の薄暗い灯りの下で、文字を並べる。

『テオへ。

蜂蜜パンは好きか。前の手紙でも聞いた。返事はまだ来ていない。来なくてもいい。

学園はどうだ。勉強は進んでいるか。友達はできたか。

ルートヴィヒ・グラーフェンベルク』

、エーリヒは蜂蜜パンが好きだったろうか。

知らない。九年間、あの子の好きな食べ物を知らなかった。朝五時に母親が泥の中に入っていたことを窓から見ていた子供の、好物すら知らなかった。

カタリーナは知っていた。エーリヒの好きな本も、リーゼの蜂蜜への執着も、領民百十二世帯の一軒ずつの事情も。全部、頭の中にあった。それを三百二十四頁の紙に落とした。

俺の頭の中には何があった。

ロゼッタの淹れた茶の味と、王都の社交界の予定表。、それだけだ。

条約が締結されたと聞いた。

クレン河流域治水協力条約。カタリーナとニコラウスの名前が共同設計者として刻まれている。国家間の条約に。百年後にも残る文書に。

俺は、王都への報告書に自分の名前だけを書いた。カタリーナの仕事を。全部。堤防も、帳簿も、識字教室も、交易路も。全部を「辺境伯ルートヴィヒの功績」として。

あの人は今、自分の名前で条約に署名している。

俺の名前は、どこにもない。

窓の外を見た。壁しか見えない。堤防は見えない。河も見えない。銘板も見えない。

テオから手紙が来た。

初めてだった。何通送っても来なかった返事が、来た。

短かった。

『父上。蜂蜜パンは好きです。学園は、慣れました。エーリヒが教科書を見せてくれます。』

エーリヒが。

(あの子が、テオに教科書を見せている)

俺の二人の息子が、同じ机で本を読んでいる。俺が引き離したいや、俺が引き離さなかったのだ。最初からつなげなかったのだ。認知の手続きを放置し、二つの家庭を別々のまま維持し、誰も守らなかった。

エーリヒが、テオを守っている。

九つの時に、父に向かって「どこにいたのですか」と問いかけた子供が。俺が何も教えなかった子供が、自分で正しい人間になった。

手紙を膝の上に置いた。

窓の外を見た。壁しか見えない。

けれどどこかで、テオが蜂蜜パンを食べているかもしれない。エーリヒの隣で。教科書を広げて。

俺には見えない。見えなくていい。

食べているなら、それでいい。

ペンを取った。返事を書く。

『テオへ。蜂蜜パン、よかった。エーリヒによろしく伝えてくれ。いや、それは俺が言うことではないな。忘れてくれ。

体に気をつけろ。

ルートヴィヒ』

(「体に気をつけろ」、か)

カタリーナに十年間言わなかった言葉を、今さらテオに書いている。遅すぎる。全てが。

けれど手紙を書くことだけは、できる。

壁しか見えない窓の前で。安物の蝋燭の灯りで。

それだけは、まだ、できる。