軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 三箇所

断った。

応接室の椅子に座り直して、ダールベルク伯爵の目をまっすぐに見た。

「貴方様のご提案はありがたいものです」

一拍、置いた。

「けれど──私の仕事は、売り物ではありません」

空気が変わった。

ダールベルクの微笑みが、ほんの一瞬だけ凍った。目の奥で計算が走っているのが分かる。この男は怒らない。怒るより先に、次の手を考える人間だ。

けれど──今の一瞬は、計算が追いつかなかった顔だった。

「……左様ですか」

声は穏やかだった。崩れない。さすがだと思う。王都の有力貴族として何十年も生きてきた男の皮膚は、こんなことでは破れない。

「カタリーナ殿のご判断を尊重いたします。ただ──旧辺境伯領の復興は、誰かが担わなければならない課題です。それだけは、ご理解いただきたい」

「理解しております」

「いずれまた、ご相談の機会をいただければ」

立ち上がり、一礼して辞去した。足音が廊下を遠ざかる。玄関の扉が閉まる。馬車が動き出す。

静寂。

隣に座っていた父が、茶を一口飲んだ。

「……よく言った」

短い言葉だった。

「合理的な提案でしたけれど」

「合理的だからといって、受ける義理はない」

父は茶器を置き、窓の外を見た。

「あの男は有能だ。有能だが──お前を人間として見ていない。道具として見ている。そういう男に、娘はやらん」

(お父様)

その言葉が、じわりと胸に染みた。

十年前、辺境伯家に嫁がせた時も、父はこう思っていたのだろうか。あの時は「体に気をつけなさい」としか言わなかった。言わなかっただけで──思っていたのかもしれない。

「ありがとうございます。……大丈夫ですよ」

「ああ。分かっている」

父は私を見ず、窓の外を見たまま頷いた。

大丈夫。

──本当に、大丈夫だろうか。

大丈夫ではなかった。

夜。作業場の蝋燭の下で、導流堤の維持管理計画書を書いていた。冬季の凍結融解に備えた護岸点検のスケジュール。次の増水期に向けた流速予測。石材の追加発注の見積もり。

数字を書く。数字を読む。数字を計算する。

──いつもなら、これだけで頭が冷える。

今日は冷えない。

ペンが止まった。計算式の途中で、数字が霞む。

(これでよかったのだ。ダールベルクの提案は、私を道具として使う契約だった。あの男の計算に乗る理由はない。正しい判断をした)

正しい判断。

正しいはずなのに、胸の底に澱のように溜まるものがある。

(でも──この子たちのためには)

エーリヒの顔が浮かぶ。リーゼの笑い声が聞こえる。

伯爵家の嫡男と結婚すれば、子供たちの社会的な立場は安定した。「子持ちの出戻りの子供」ではなく、「ダールベルク伯爵家の義子」として学園に通えた。テオの件だって──ダールベルク家の後ろ盾があれば、何も心配する必要がなかった。

(それを、蹴ったのよ。自分の感情で。「売り物ではない」なんて言って──格好をつけて──)

ペンを握り直した。計算の続き。流速の二乗に係数を掛けて──

……合わない。

もう一度計算した。合わない。数字が違う。どこかで桁を間違えている。

消して、書き直す。もう一度。

──合わない。

蝋燭の火が揺れた。指先が震えているのに気づいた。寒さではない。

「三箇所、間違っています」

声がした。

振り返った。作業場の扉に、ニコラウスが立っていた。外套を着たまま。夜の見回りの帰りだろうか──いや、定期調査の日ではない。

「……ヴェーバー技師。なぜここに」

「灯りが見えたので」

それだけ言って、ニコラウスは机に歩み寄った。計算用紙を手に取り、数字を目で追う。指先が、一行目で止まった。二行目に移動した。三行目。

「ここと」

一箇所目を指す。

「ここと」

二箇所目。

「ここ。三箇所、間違っています」

三箇所。

三箇所も計算を間違えるなど、この一年で一度もなかった。辺境伯領の十年間を含めても、一晩に三箇所の計算ミスをしたことはない。帳簿の数字は正確につける。それが私の矜持であり、十年間の仕事の全てだった。

ニコラウスは──何も聞かなかった。

なぜ間違えたのか。何があったのか。ダールベルクの件を知っているのか。

何も。

計算用紙を机に戻し、ペンを置いた。

「明日やり直しましょう。今日は帰ってください」

声は穏やかだった。命令ではない。けれど、静かな確かさがあった。

「……間違いを直せます。もう少しだけ──」

「カタリーナ殿」

名前を呼ばれて、言葉が止まった。

「三箇所です。貴方が一箇所でも間違えること自体が、異常です」

淡々と。技師が数値の異常を報告するのと、同じ声で。

「明日の朝、頭を冷やしてから。そちらの方が、正確な数字が出ます」

──この人は。

私の不調を、数字の乱れで読んでいる。

顔色ではなく。声の調子でもなく。計算の誤差で。

(十年間、夫は帳簿の数字すら見なかったのに)

ルートヴィヒは一度も──一度も──私の帳簿を読まなかった。三百二十四頁の引き継ぎ資料を渡した日にようやく頁をめくって、そこで初めて中身の厚さに青ざめた。十年間、毎晩蝋燭の下で書いていた数字を、あの人は一行も見ていなかった。

この人は見ている。

数字を。計算を。その乱れを。

言葉では聞かない。「何があったのか」とも「大丈夫か」とも言わない。ただ、数字の異常を指摘して、時間をくれる。「明日やり直しましょう」。

それが──この人なりの、寄り添い方なのだ。

「……分かりました」

ペンを置いた。

立ち上がろうとして、足がもつれた。疲れている。朝からずっと、頭の中で同じ問いが回り続けていた。正しかったのか。間違っていたのか。子供たちのためには──

「足元」

ニコラウスの声が、低く響いた。

手が伸びてきた──けれど、触れなかった。こちらの体勢を確認して、手を引っ込めた。数日前、岩場で腰を支えた時とは違う。触れずに、確認だけして、引いた。

(この人は──分かっている)

今の私に必要なのは、支えられることではなく、自分の足で立つことだ。

「お気をつけて」

ニコラウスが扉を開けた。廊下の暗がりに、背中が消えていく。飾り気のない外套。少し猫背の、技師の後ろ姿。

その背中を見送りながら、私は思った。

(この人は、私の不調を数字で読んで、言葉では何も聞かず、時間だけをくれた)

(十年間、あの人は──あんなに近くにいたのに、何も読まなかった)

比べてはいけない。比べるものではない。

でも──比べてしまう。数字を見る人と、見ない人。仕事を名前で呼ぶ人と、呼ばない人。図面を守る人と、図面を知らない人。

蝋燭を吹き消した。作業場を出る。廊下の窓から、月が見えた。雲の切れ間に、細い光。

明日、やり直そう。

数字は裏切らない。頭が冷えれば、正確な計算ができる。三箇所の間違いは、明日の朝には消えている。

──そのはずだ。

翌朝。

計算をやり直した。三箇所の間違いは全て修正した。頭は冷えていた。数字は正確だった。ニコラウスの言う通りだった。

朝食を終えて書斎に向かおうとした時、マルタが封書を持ってきた。

「奥様。ザールフェルト公国から、公式書簡が届いております」

公国の公印。重い封蝋。宛先は「リンデン伯爵アルブレヒト・フォン・リンデン閣下」。

父の書斎に持ち込んだ。父が封を切り、文面を読み、私に渡した。

『リンデン伯爵閣下

ザールフェルト公国は、クレン河流域における治水事業の成果に鑑み、両国間の治水協力に関する正式な条約の締結を提案いたします。

本条約は、クレン河流域の導流堤を含む治水施設の共同管理、技術協力、および下流域の水害予防を目的とするものであり──』

文面を、二度読んだ。

条約。

国家間の、正式な条約。

「……お父様。これは」

「分かっている」

父の声に、静かな高揚があった。

「国家間の治水協力条約が締結されれば、クレン河流域の治水事業は両国の共同管理下に入る。一貴族の統合管理案など──」

「入り込む余地がなくなる」

ダールベルクの統合管理案は、旧辺境伯領の管理をダールベルク家に委託するという提案だ。けれど、その領域がザールフェルト公国との条約で保護されていれば、一貴族の管理案など政治的に通しようがない。国家間条約の前では、貴族院の一提案に過ぎなくなる。

(公国が──動いた)

なぜ、このタイミングで。

辺境伯領の堤防決壊の時も、公国は公式調査命令を出した。あの時は「下流域への水害波及の懸念」が根拠だった。今回もそうだ。クレン河の治水は、下流のザールフェルト公国にとって安全保障上の問題でもある。条約を結ぶ政治的な合理性は、十分にある。

けれど──

(このタイミングは、偶然だろうか)

ダールベルクの統合管理案が提出されて、一週間。その一週間で、公国が条約提案を準備して送ってきた。外交文書の起草には時間がかかる。一週間では無理だ。つまり──準備は、もっと前から始まっていた。

誰が、公国を動かしたのか。

ニコラウスの顔が浮かんだ。

(あの人は──公国の主任河川技師だ。公国政府に対して、技術的な提言ができる立場にいる)

昨夜、作業場に来た時のことを思い出す。灯りが見えたから来た、と言っていた。夜の見回りの帰り。定期調査の日ではないのに。

あの人は何を考えていたのだろう。三箇所の計算ミスを指摘して、何も聞かず、時間だけをくれた。──その裏で、公国にこの条約を提案させていたのだとしたら。

(……考えすぎよ)

分からない。ニコラウスが関与したかどうか、確かめる術はない。確かめたところで、あの人は否定も肯定もしないだろう。技師は言葉ではなく形で示す──あの人は、そういう人だ。

「お父様。この条約提案、受けましょう」

「無論だ」

父が頷いた。

「条約交渉には実務担当が要る。治水の専門知識がなければ、公国との対等な交渉はできん」

「……私が、やります」

「ああ。──お前以外に、誰がやるんだ」

父が、ほんの少しだけ、笑った。

窓の外で、冬の朝日が昇り始めていた。クレン河の水面が光っている。導流堤の石積みが、朝露に濡れて輝いていた。

机の上に、昨夜やり直した計算用紙がある。三箇所の間違いは全て消えて、正確な数字だけが並んでいる。

数字は裏切らない。

そして──数字を読む人も、裏切らない。

条約の書簡を丁寧に折り、引き出しにしまった。その隣には、ニコラウスからの五年分の書簡の束がある。技術の話と、不器用な一行の気遣いが、何十通も重なっている。

新しい書簡が、その束に加わった。

今度は──国家間の、公印付きの。

(あの人が動かしたのかどうか、聞かない。聞く必要はない)

形で示す人に、言葉で確かめるのは野暮だ。

ペンを取った。条約提案への返信の下書きを始める。数字は正確に。一箇所の間違いもなく。

──昨夜の三箇所を、もう二度と繰り返さないために。