軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話 二通

学園からの封書は二通あった。

一通は息子の分。入学準備に関する案内書類。制服の採寸日程、寮の備品一覧、初年度の納付金。秋の入学に向けた、事務的な書類。

もう一通は──知らない名前のようで、知っている名前だった。

「テオ・フォン・グラーフェンベルク」。

入学申請者一覧。学園の事務局が、同年度の入学予定者を保護者に通知する慣例のものだ。同じ学年に入る子供たちの名と出身家門が並んでいる。その中に、あった。

グラーフェンベルク。

あの姓を名乗る子供が、もう一人いる。

封書を持つ指が冷たくなった。朝食室の陽光が、急に遠くなる。

(あの別邸の庭にいた子供──)

一年半前。王都の馬車の窓から、ほんの数秒だけ見た少年。栗色の髪。ルートヴィヒによく似た横顔。犬を追いかけて走り回っていた、あの子。

テオ。

あの子の名前を、今初めて知った。

「母上?」

エーリヒの声で、我に返った。

朝食の席だ。リーゼが蜂蜜のついた指でパンを千切っている。父がリーゼの皿を直してやっている。いつもの朝。

「……なんでもないわ」

封書を膝の上に隠した。エーリヒの目が、一瞬だけ私の手元を追った。

十歳の目は鋭い。

朝食の後、私室で封書を広げ直した。

入学申請者一覧を、もう一度確認する。テオ・フォン・グラーフェンベルク。年齢、九歳。──エーリヒの一つ下。同年度に入学すれば、同じ学園で顔を合わせることになる。

(ルートヴィヒが、仕掛けてきた)

復権嘆願は却下された。ロゼッタの工作もクラウスに一蹴された。残された手段が──子供、ということか。

テオを学園に入れる。グラーフェンベルクの姓で。エーリヒと同じ場所に。

あの子自身に悪意はないだろう。九つの子供が、自分で学園を選ぶわけがない。親に言われるまま、知らない場所に送り込まれるだけだ。

けれど──エーリヒにとっては。

扉を叩く音がした。

「母上」

エーリヒだった。朝食室で私の手元を見ていたのだろう。この子は、聞かなくていいことは聞かないが、知るべきことを避けもしない。

「入りなさい」

エーリヒが入ってきた。手に法律書は持っていない。まっすぐに私を見た。

「学園の書類に、グラーフェンベルクの名前があったでしょう」

隠すつもりはなかった。封書を差し出した。エーリヒが受け取り、入学申請者一覧を目で追う。

「テオ・フォン・グラーフェンベルク」の行で、指が止まった。

沈黙。

「……知っていたわ。あの子のこと」

「はい」

エーリヒの声は硬かった。

「あの子は何も悪くない」

そう言って──言いかけて、唇を噛んだ。

「でも──」

その先が、出てこなかった。

十歳の子供が、異母弟の存在を「あの子は悪くない」と理解しようとしている。理解しようとして、けれど割り切れない何かが喉に詰まっている。当たり前だ。十歳で割り切れる方がおかしい。

「エーリヒ。辛いなら、話して」

膝をついて、息子と同じ目の高さになった。

エーリヒは私を見た。まっすぐに。あの日──応接室でルートヴィヒに問いかけた時と同じ、容赦のない目。けれど今は、その目の奥に、容赦できない自分自身への苛立ちが見えた。

「大丈夫です」

言い切った。

それから踵を返し、部屋を出ていった。足音が廊下を遠ざかる。書庫の扉が開く音。

(……法律書だ)

この子は感情を持て余すと、本を開く。答えを、法の中に探しに行く。

私はその背中を追わなかった。追えば、この子の「大丈夫」を疑うことになる。

三時間が経った。

午後の陽が傾き始めた頃、エーリヒが私室の扉を叩いた。

手に、法律書を抱えていた。付箋が三枚、新しく挟まっている。ニコラウスが貼った付箋の隣に、エーリヒ自身が貼ったものだ。

「母上。庶子の認知手続きについて、聞いてもいいですか」

声は落ち着いていた。三時間前の動揺が、嘘のように。

「……聞かせて」

エーリヒが法律書を開いた。付箋の箇所。

「庶子の認知は、父親が貴族院に『庶子認知申請書』を提出することで成立します。申請書には父親の署名と爵位の記載が必要で、当主権限のある者にしか提出資格がありません」

淡々と読み上げる。条文の要約だ。十歳がこの文章を噛み砕いているという事実に、胸が軋んだ。

「ここが重要です、母上。──爵位の記載、と書いてあります」

エーリヒが指で条文を指した。

「父上は、爵位を剥奪されました。辺境伯ではなくなった。ということは──」

「爵位のない人間には、庶子認知申請の提出資格がない」

私が引き継いだ。

エーリヒが頷いた。

「もしも父上が辺境伯だった頃に認知手続きを済ませていれば、テオは正式に『グラーフェンベルクの庶子』です。姓を名乗る法的根拠がある。けれど──」

「済ませていなければ」

「テオには、グラーフェンベルクの姓を名乗る法的根拠がありません。貴族子弟としての学園入学資格も──」

エーリヒの声が、そこで途切れた。

唇を引き結んでいる。法律書を握る手に、力が入っている。

この子は分かっている。自分が今、異母弟の入学資格を否定しようとしていることを。「あの子は何も悪くない」と言った、その同じ口で。

「……エーリヒ」

「分かっています」

硬い声だった。

「あの子は何も悪くない。でも──手続きをしなかったのは、父上です。あの子じゃない」

十歳の論理だった。感情と理屈の間で、この子なりの線を引いている。

(この子は大人になりすぎている、と思うべきなのかしら)

けれど──エーリヒの目を見た。法律書を開いた時の、あのまっすぐな目。追い詰められた子供の目ではなかった。解決策を見つけた人間の目だった。

この子にとっては、「自分で動ける」ことが救いなのだ。泣くことでも、怒ることでもなく──調べて、見つけて、指摘できること。それが、十歳の背骨になっている。

「……お見事ね」

エーリヒが、ほんの少しだけ目を伏せた。

「ヴェーバー先生の付箋のおかげです。あの条文から、関連する規定を辿っていったら──」

(ニコラウスの付箋)

「管理者の功績認定」。あの付箋がなければ、エーリヒはこの条文に辿り着いていなかったかもしれない。法律書の中で道標のように機能した一枚の紙片。

ニコラウスは──あの付箋を貼った時、ここまで見通していたのだろうか。

(まさか。技師が、庶子認知の法律を……)

分からない。分からないけれど、あの人の付箋がエーリヒの手を導いたことだけは、確かだった。

「ありがとう、エーリヒ。この件は、お祖父様に報告しましょう」

「はい」

エーリヒが法律書を閉じた。付箋が四枚、整然と並んでいる。一枚はニコラウスの、三枚はエーリヒの。

大人が一枚、子供が三枚。

(──上等だわ)

午後遅く。護岸の定期視察に出た。

ニコラウスと二人、クレン河の河川敷を歩く。風邪はもう治ったらしい。声が戻っている。低くて落ち着いた、技師の声。

「上流の水位が安定しています。導流堤の効果が持続している証拠ですね」

「冬場の凍結融解による目地の劣化だけが心配です。一月の点検で確認しましょう」

岩場に差しかかった。冬の渇水期で水位が下がり、普段は水中に隠れている岩が露出している。ここの護岸の基礎部分を確認するには、岩場を降りる必要がある。

「足元が滑ります。気をつけて──」

ニコラウスが言い終わる前に、私の長靴の底が苔に滑った。

体が傾く。左足が空を切った。手帳を握ったまま、体勢を立て直そうとして──できなかった。

腰に、手が回った。

ニコラウスの右手が、私の腰を掴んでいた。片手で私の体重を支えて、引き戻す。

体勢が不安定だった。ニコラウスも岩場の上に立っている。両足の踏ん場が悪い。引き戻したはいいが、そのまま二人とも止まってしまった。

ニコラウスの腕が、私の腰に回ったまま。

背中に、この人の胸がある。外套越しに、心臓の鼓動が伝わってくる。速い。──私のか、この人のか、分からない。

耳元に、ニコラウスの呼吸が触れた。秋の冷えた空気の中で、息だけが温かい。

「……足場を確認してください」

ニコラウスの声は平静だった。

平静だったのに──耳が、赤かった。

見えた。振り返れない体勢だったが、首を傾けた拍子に、すぐ横にあるこの人の耳が目に入った。寒さで白くなった肌の中で、耳の縁だけが鮮やかに赤い。

寒さのせいではない。

「──すみません。大丈夫です」

足元を確かめた。長靴が岩の平らな面を捉えている。もう滑らない。

ニコラウスの手が離れた。

一秒前まであった温かさが、腰から消えた。秋の風が、代わりに吹き抜けた。

「……護岸の基礎確認は、もう少し水位が下がってからの方がいいかもしれません」

ニコラウスが何事もなかったように言った。声は安定していた。けれど、視線が川面に固定されたまま、こちらを見ない。

「そうですね。日を改めましょう」

私もそう答えて、手帳に「基礎確認──延期」と書いた。

文字が少し震えていた。寒さのせいだ。寒さのせいだと、書きながら思った。

夜。

子供たちを寝かしつけた後、父の書斎に行った。

エーリヒの発見──テオの庶子認知未了の可能性──を報告するためだった。父は帳簿を前に渋い顔をしていたが、私が入ると手を止めた。

「エーリヒが見つけました。庶子認知申請の手続きについて」

「……十歳の子供がか」

「法律書を読み込んでいます。ヴェーバー技師が貼った付箋が手がかりになったようです」

父が目を細めた。何かを言いかけて、言わなかった。代わりに、机の上の別の封書を取り上げた。

「カタリーナ。もう一つ、報せがある」

表情が──硬い。朝のダールベルクの件とは、別の硬さ。

「王都の代理人から急信が届いた。ダールベルク伯爵が貴族院に、『旧辺境伯領統合管理案』を正式に提出した」

統合管理案。

「……婚姻の返事を待たずに、ですか」

「そうだ。婚姻はこの案の一部に過ぎなかったようだな。管理案の骨子は──旧辺境伯領の復興管理を、隣接する有力貴族に委託する。委託先として、ダールベルク家を推薦する」

あの男は、婚姻の返事を待つ気などなかったのだ。

「検討します」と言った私の言葉を、ダールベルクは聞き流していた。婚姻が成立すればなおよし。成立しなくても、統合管理案が通れば旧辺境伯領の管理権は手に入る。どちらに転んでも、あの男の計算は成立する。

(……二枚、持っていたのね)

婚姻提案は表の札。統合管理案が裏の札。表が通らなくても裏が通ればいい。政治家として、手堅い。手堅くて──気持ちが悪い。

「この案が通れば、旧辺境伯領の管理はダールベルク家の支配下に置かれます。カタリーナの治水能力も、ダールベルクの資産として組み込まれる恐れがある」

父の声が低い。

「対策が要ります。けれど──」

「うむ。単独で動ける段階を超えている」

父が茶を一口飲んだ。顔が険しい。

「貴族院での審議は早ければ来月にも始まる。リンデン伯爵家だけでこれを止めるのは難しい」

窓の外は暗かった。月が雲の向こうに隠れている。

テオの入学問題。ダールベルクの統合管理案。ルートヴィヒの足掻き。三つの方向から、同時に。

(──けれど、まだ手はある)

エーリヒが法律書の中に道を見つけたように、私も数字と記録の中に道を見つける。十年間、そうしてきた。

「お父様。王都の代理人に、統合管理案の全文を取り寄せるよう手配してください。中身を読まなければ、対策の立てようがありません」

「ああ。明朝、手配する」

書斎を出た。

廊下を歩きながら、今日の全部を頭の中で並べ直した。テオの入学申請。エーリヒの発見。岩場のニコラウスの手。ダールベルクの統合管理案。

腰に残る、あの手の温かさ。

(……今は、それを考えている場合ではないでしょう)

足を速めた。私室に戻り、蝋燭を灯した。机の上に手帳を開く。「基礎確認──延期」の文字。少し震えた筆跡。

その下に、新しく書き加えた。

「統合管理案──全文取り寄せ。テオの認知手続き──確認要。護岸基礎──日程再調整」

仕事の項目を並べると、頭が冷える。数字と予定と手順。これだけが、十年間ずっと私を支えてきたものだ。

蝋燭の火が、静かに揺れていた。