軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 水源の石

石は、手のひらに収まるほど小さかった。

灰色がかった白。表面に薄い縞模様が走っている。指で撫でると、滑らかで冷たい。河原の石特有の、水に磨かれた肌触り。

──けれど、それはもう少し先の話。

朝。父の書斎。

「条約交渉の実務担当は、お前に任せる」

父がそう言った時、驚きはなかった。驚きはなかったが、背筋が伸びた。

「リンデン伯爵家の名代として、お前を交渉の場に送る。治水の専門知識に加えて、旧辺境伯領の実務経験がある人間でなければ、公国との対等な交渉はできん。適任はお前しかいない」

「承知しました」

「来月、王都に発つ。交渉は貴族院の会議場で行われる。公国側の交渉団は──」

「ヴェーバー技師が入っていますか」

父が一瞬黙った。それから、ほんの少し口元を緩めた。

「……入っているそうだ」

「そうですか。では、流速データの最新版を持参する必要がありますね」

「ああ。──それだけか」

「それだけです」

それだけのはずだった。王都行きは仕事だ。条約交渉という、国家間の公務。ニコラウスが交渉団にいるのも、主任河川技師として当然の配置であって、私的な理由ではない。

けれど──王都。

あの街には、ルートヴィヒがまだいる。

爵位を剥奪された元辺境伯。安宿に暮らしていると、クラウスの手紙にあった。復権嘆願は却下された。社会的にはほぼ孤立している。それでもまだ、あの街にいる。

「王都で、辺境伯と──元辺境伯と顔を合わせる可能性はあります」

「ある。だが、お前が気にすることではない」

父は淡々と言った。

「条約交渉は公務だ。元辺境伯が何をしようと、交渉の場に入る資格はない。爵位のない人間は、貴族院の会議場には立てん」

道理だ。道理なのに、胸の底で何かがざわついた。

あの街の空気は、埃っぽかった。一年半前、エーリヒの入学手続きで訪れた時のことを思い出す。馬車で五日かけて辿り着いた王都。迂回した住宅街。別邸の庭。薔薇。指輪。

(今度は、違う)

あの時は、何も知らずに行った。今度は、全部知った上で行く。

「準備を始めます。条約の草案と、流域データの整理。二週間あれば間に合います」

「頼んだ」

書斎を出た。廊下を歩きながら、頭の中で段取りを組む。条約の草案。交渉の論点整理。クレン河の流速データ。導流堤の設計図面の写し。旧辺境伯領の堤防決壊に関する公式記録。

仕事がある。仕事がある限り、大丈夫だ。

その日の午後。作業場で条約草案の下書きをしていると、ニコラウスが来た。

定期調査の報告日だった。いつも通り十時ちょうどに来て、いつも通り技術の話をして、いつも通り──

「カタリーナ殿。一つ、お渡ししたいものがあるのですが」

いつも通りではなかった。

ニコラウスの声が、ほんの少しだけ硬い。報告書を読み上げる時の安定した低音ではなく、何かを言おうとして言葉を選んでいる声。

「何でしょう」

ニコラウスが外套のポケットに手を入れた。取り出したのは、小さな布の包み。

差し出された。受け取った。布を開いた。

石だった。

灰色がかった白。表面に薄い縞模様。手のひらに収まるほど小さくて、河原の石のように滑らかで冷たい。

「クレン河の水源から持ち帰りました」

ニコラウスの声が、いつもの安定を取り戻していた。技術の話に入ると、この人は落ち着く。

「この石の成分は、石灰質砂岩です。導流堤の石積みに使った石材と同じ地層から出ています。つまり──あの堤防の石は、もともとこの水源から流れてきたものです」

指先で石を撫でた。冷たい。けれど、布に包まれていた名残か、芯にわずかな温もりがある。

「……水源の石を手元に置くのは、技師として──」

「技師としてではありません」

遮られた。

静かな声だった。けれど──はっきりと。

ニコラウスの目がこちらを見ていた。図面を検算する時の目ではない。数値の異常を報告する時の目でもない。

もっと──剥き出しの目だった。

「今日が、カタリーナ殿の誕生日です」

息が止まった。

「……なぜ、ご存知なのですか」

「書簡の日付から」

五年分の書簡。私がニコラウスに送った技術書簡は、全て日付入りだった。問い合わせの書簡、返信の書簡、図面の送付連絡。その中に──あったのだろう。誕生日に近い日付の書簡が。何かの祝日と重ねて「本日は祝日ですので返信が遅れます」とでも書いたのかもしれない。

そこから逆算した。この人は、書簡の日付から、私の誕生日を割り出した。

(技師らしい……いえ)

技師らしくない。技師らしくないことを、技師らしい方法でやっている。

石を握り締めた。手のひらの中で、石が温まっていく。

「ありがとう──ございます」

声が、震えた。

震えたくなかったのに。蝋燭の下で帳簿をつける時の、あの淡々とした声で礼を言いたかったのに。

ニコラウスは何も言わなかった。視線を机の上の図面に戻し、「では、流速データの照合を続けましょう」と、何事もなかったように仕事に戻った。

石は、ポケットに入れた。

仕事を続けた。数字を読んだ。計算をした。声は平静に戻った。

けれどポケットの中で、石が温かかった。体温で。私の体温で。

夕方。

打ち合わせが終わり、ニコラウスが庭を通って門に向かうのを、私は作業場の窓から見ていた。

庭の花壇の前で、ニコラウスの足が止まった。

エーリヒがいた。

木陰のベンチに座っていた長男が、立ち上がってニコラウスの前に出た。何か話しかけている。距離があって声は聞こえないが、エーリヒの表情は真剣だった。

ニコラウスが足を止めた。エーリヒを見下ろしている。背の差がずいぶんある。三十一歳の技師と、十歳の少年。

エーリヒが何かを言った。短い言葉のようだった。

ニコラウスの体が──固まった。

肩が強張り、視線が泳いだ。答えようとして、口を開いて、閉じた。もう一度開いて──やはり何も出てこなかったらしい。

エーリヒは答えを待たなかった。踵を返して、屋敷の方へ歩いていった。振り返らない。

ニコラウスが一人、庭に残された。しばらく立ち尽くしていた。それから、手で顔を覆うような仕草をして、門に向かって歩き始めた。耳の端が、赤かった。

(何を、話していたの……)

夕食の席で、さりげなく聞いた。

「エーリヒ。今日、ヴェーバー先生と何か話していた?」

「はい」

エーリヒは箸を止めず、淡々と答えた。

「母上のことです」

「私の?」

「母上は最近、夜遅くまで明かりをつけています。条約の準備でしょう。先生は気づいていますよね、と言いました」

リーゼが「おかあさま、夜ふかしだめだよー」と口を挟んだ。父がリーゼの頭を撫でた。

「それだけ?」

「それだけではありません」

エーリヒが紅茶を一口飲んだ。十歳の仕草が、妙に大人びている。

「『なぜ自分で言わないのですか』と聞きました」

……。

「先生は、何と?」

「何も言いませんでした」

エーリヒが私を見た。まっすぐに。あの、全部を見ている目で。

「母上。先生は不器用な方ですね」

それだけ言って、食事に戻った。

私は──何も言えなかった。

(なぜ自分で言わないのですか)

エーリヒの問いが、胸の中で反響している。

ニコラウスは答えられなかった。答えられなかったということは──言うべき何かがある、ということだ。

書簡の末尾の「お体を大切に」。図面をこちら側に向ける癖。成果報告書に私の名前を明記すること。公式調査命令。条約提案。椅子を日当たりの良い位置に動かすこと。法律書に付箋を貼ること。風邪の日の筆談。水源の石。

全部──形だった。言葉ではなく、形で。

(この人は五年間、ずっと──)

分かっていた。分かっていたはずだ。堤防の上で手を握り合った日から。いや──もっと前から。

なのに正面から受け止めきれずにいるのは、私の方だ。

(子持ちの出戻りが、あの人の将来を──)

また、あの思考だ。自分を下げて、相手を遠ざける思考。十年間の癖が、まだ抜けない。

夜。

私室で、王都行きの荷造りを始めた。

条約の草案。流速データ。導流堤の設計図面の写し。旧辺境伯領の堤防決壊に関する記録。全て揃えて、鞄に詰める。

手が止まった。

十年前も、鞄を詰めた。白い花嫁衣装の朝。銀木犀の匂いの中、馬車に乗り込んで、振り返らなかった。

一年半前も。エーリヒの入学手続きで王都に行った。帰りの馬車が、あの住宅街を通った。

一年前も。辺境伯領を出る日。領民たちの声を背中に聞きながら、振り返らなかった。

何度、荷物を詰めただろう。何度、馬車に乗っただろう。

でも──今度は違う。

今度は、嫁入りではない。逃げ帰るのでもない。

条約交渉の実務担当として行く。リンデン伯爵家の名代として。カタリーナ・フォン・リンデンの名前で。

鞄の底に、帳簿の写しが入っている。辺境伯領から持ち出した、あの五年分の記録。王都行きの荷物には、いつもこれが入っていた。今度は、それに加えて条約の草案と導流堤の図面がある。

机の上に、水源の石を置いた。

灰色がかった白。薄い縞模様。体温で温まった石が、少しずつ冷めていく。

(技師としてではありません)

あの言葉を、まだ飲み込めていない。飲み込めないまま、王都に行く。

でも──持っていく。この石は、持っていく。

鞄の一番底に、布に包んで入れた。帳簿の写しの隣に。

窓の外で、冬の星が光っている。王都まで馬車で二日。出発は来月の初め。

あの街の空気は、埃っぽかった。

──今度は、この石がある。