作品タイトル不明
第8話 ローラの事情
ローラが私を訪ねてくるとは、思ってもみなかった。
その日の昼下がり、取り次ぎの侍女が困った顔で来客を告げたとき、私は名を聞き間違えたのかと思った。聞き間違いではなかった。レオンハート家の門前に、フェルゼン家の乳姉妹が、供も連れずに一人で立っているという。
会うべきかどうか、少し迷った。けれど追い返すのも、私の流儀ではない。庭の東屋に通すよう言って、私は支度を整えた。整えながら、心の中で帳簿を一行、用心のために開いておいた。この子が何を言いに来たのか。見当はつかない。見当がつかないときは、構えておくに限る。
東屋に座ったローラは、いつものローラではなかった。
茶会で見る彼女は、いつも自信に満ちていた。自分が一番に扱われることを、空気のように当たり前に受け止めていた。けれど今、目の前に座っている彼女は、膝の上で両手を固く握りしめて、視線を落としていた。握った手の中に、白いハンカチがくしゃくしゃに丸められている。
「突然、申し訳ありません」
声が、いつもより小さかった。
私は何も言わずに、紅茶を勧めた。温かいうちに、と。ローラは杯に手を伸ばしかけて、けれど口はつけず、また膝の上に戻した。
「フィオナ。あの……私のせいで、こうなったのでしょうか」
来た。けれど、想像していた切り出し方とは、少し違った。私はてっきり、彼女が指輪のことか、あるいは婚約解消のことで、何か言い分を持ってきたのだと思っていた。けれど、彼女の口から出たのは、問いだった。それも、ずいぶん心細い問いだった。
「あなたのせい、というのは」
「あなたが、マティアス様との婚約を……。私が、いろいろなものを、あなたから取ってしまったから」
私は、すぐには答えなかった。
正直に言えば、あなたのせいだと言ってしまえれば、どれだけ簡単だろうと思った。指輪を奪い、隣の席を奪い、婚約者の関心を奪った。並べてみれば、彼女は確かに、私から多くを取っていった。けれど、それを「あなたのせい」と呼ぶには、一つ、引っかかることがあった。
取った、という言い方は、能動的すぎる。ローラは、奪い取ったのではない。差し出されたものを、受け取っただけだ。差し出したのは、私ではなく、マティアス様だった。
「ローラ。一つ、聞いてもいいですか」
「……はい」
「あなたは、自分が一番に扱われることを、どう思っていましたか」
ローラは、少し驚いた顔をした。それから、ゆっくりと、ハンカチを握り直した。
「……当たり前だと、思っていました」
正直な答えだった。私は、その正直さを、少しだけ買った。
「小さい頃、私は体が弱くて。よく熱を出して、寝込んでいました。フェルゼン家の方々は、そんな私を、いつも一番に気にかけてくださいました。マティアス様も。私が泣くと、すぐに飛んできて。私が欲しがると、すぐに与えてくださって」
ローラの声が、少しずつほどけていった。
「だから、私……与えられることが、当たり前になっていたんです。誰かが私のために我慢していることに、考えが及ばなかった。あなたの席が、いつも一つ離れていたことも、あなたへの贈り物が、私の手に渡っていたことも。気づいていなかったんです。気づこうとも、していなかった」
私は黙って聞いていた。
おかしなものだ。彼女の話を聞いていると、彼女もまた、誰かの手の上で動かされてきたのだと分かる。マティアス様が「家族同然だ」と言って彼女を最優先にしてきたのは、彼女のためというより、たぶん、彼自身が安心するためだった。守るべき弱いものを抱えていると、自分が善い人間でいられる。ローラは、その役を、ずっと割り当てられてきた。守られる人形の役を。
私が婚約者として軽んじられてきたのと、彼女が庇護される人形として扱われてきたのは、根のところで、少し似ている。どちらも、自分の意思で選んだ場所ではない。
——という分析を、心の中で組み立てながら、私は同時に、こうも思っていた。
だからといって、私が戻る理由には、ならない。
事情が分かることと、許すことは違う。許すことと、元の場所へ戻ることは、もっと違う。彼女に同情の余地があるのは確かだ。けれど、その同情を理由に、私がまたあの冷めた紅茶の席へ座り直すのは、筋が違う。
「ローラ」
私は、静かに言った。
「あなたを恨んではいません。これは本当です」
ローラが顔を上げた。すがるような目だった。その目が、ほんの少し、安堵に緩みかけた。
「ただ」
私は、その安堵が完全に広がる前に、続けた。
「だからといって、私が婚約に戻ることもありません。それは、あなたを恨んでいるからではなく、私が、もうあの場所に座りたくないからです。あなたのせいでも、マティアス様のせいでもなく、私が決めたことです」
これだけは、はっきりさせておきたかった。彼女に、罪を背負わせたくはない。けれど同時に、彼女に、許しを乞えば私が戻るという幻想も、持たせたくなかった。私が降りたのは、誰かを罰するためではない。ただ、これ以上あの席に座っていられなかった。それだけのことだ。理由を他人に押し付けると、決断が、自分のものでなくなる。
ローラは、しばらく黙っていた。それから、握りしめていたハンカチを、ゆっくりと膝の上で広げた。皺だらけになったハンカチを、彼女は手のひらで、何度も伸ばそうとしていた。けれど、一度ついた皺は、なかなか消えなかった。
「……私、これから、どうすればいいのか、分からないんです」
ぽつりと、彼女が言った。
「ずっと、与えられて生きてきました。欲しいと言えば、もらえました。でも、あなたがいなくなって、フェルゼン家がうまく回らなくなって。マティアス様も、前みたいに笑わなくなって。私、初めて気づいたんです。私は、何も、自分でしたことがないって」
私は、その言葉に、すぐには返事ができなかった。
それは、私が想像していたよりも、ずっと深いところから出た言葉だった。守られる人形は、守られているあいだは安全だ。けれど、守ってくれる手が揺らいだとき、人形には、自分の足で立つすべがない。立ち方を、誰も教えてくれなかったからだ。
「立ち方は」
私は、少し考えてから言った。
「誰かに教わるものではないと思います。私も、誰にも教わりませんでした。ただ、もうこれ以上は無理だと思ったとき、勝手に足が動いただけです」
慰めにも、助言にもなっていない言葉だった。けれど、嘘ではなかった。私は彼女に、立ち上がり方の手本を示してやれるほど、立派な人間ではない。私だって、痺れた足でよろけながら、やっと立ったばかりだ。
ローラは、広げたハンカチを、今度は丁寧に畳んだ。皺は残ったままだったけれど、四角く畳まれたそれを、彼女は両手で握った。
「ありがとうございました」
帰り際、東屋を出るとき、彼女はもう一度頭を下げた。来たときよりも、少しだけ背筋が伸びていた。気のせいかもしれない。けれど、人形が人形でなくなる瞬間というのは、案外、こういう小さなところから始まるのかもしれない、とも思った。
ローラが帰ったあと、私は冷めかけた紅茶を、一人で飲み干した。
彼女もまた、誰かの都合で動かされてきたのだと、改めて思う。けれど、それを知ったからといって、私の中の帳簿が、何か書き換わるわけではなかった。私は私の決断を、彼女のために曲げる気はない。事情を知ることは、優しさかもしれない。けれど、優しさと、自分を差し出すことは、やはり、同じではないのだ。
母の言葉を、また少しだけ、思い出した。
縁を大切にしなさい、と母は言った。けれど、縁を大切にすることと、誰かの人形になることは、違う。それを、私はやっと、自分の言葉で言えるようになりつつあった。
庭の向こうで、遠くから、庭師がこちらをちらりと見て、また手元の植木に目を戻した。