作品タイトル不明
第9話 かばわない兄
帳簿は、言い訳よりもずっと雄弁だった。
クリストフ様から、改めて使いが来た。贈答の不始末について、家として正式に筋を通したい。ついては、証人として立ち会ってもらえないか、と。私は、迷わなかった。立ち会う、と返事をした。立ち会う義理は、もうないはずだった。けれど、私の控えた帳簿が、誰かを正しく裁くために使われるなら、それは見届けたかった。書いた物には、書いた者の責任がある。これも、性分だ。
フェルゼン家の広間に通されると、すでに人が揃っていた。当主のクリストフ様。その向かいに、マティアス様。少し離れたところに、家令が控えている。そして、上座に近い椅子に、フェルゼン家の母上が、背筋を伸ばして座っていた。
母上と目が合った。あの方は、私の扱いを、ずっと黙って見てきた数少ない人のひとりだ。何度か、私を気遣うような視線を向けてくれたことはあった。けれど、口を出すことはなかった。当主はクリストフ様であり、婚約はマティアス様の領分。母とはいえ、家政の采配に口を挟む立場ではなかったのだろう。今日、その母上が、わざわざこの場に同席している。それだけで、この話し合いの重さが知れた。
私が椅子に座ろうとすると、クリストフ様が、自然な動作で、私のための椅子を引いた。
ほんの小さな仕草だった。けれど、この広間で、誰かが私のために椅子を引いたのは、初めてのことだった。婚約者だった頃ですら、なかったことだ。私は一瞬、手の置き場に迷った。そして、礼を述べて座った。マティアス様が、その様子を、妙な顔で見ていた。兄が、元・自分の婚約者の椅子を引いている。彼の中で、何かが噛み合っていないのだろう。噛み合っていないのは、たぶん、もっと前からなのだけれど。
「始めよう」
クリストフ様が、卓の上に二冊の帳簿を並べた。フェルゼン家の正式な綴りと、私の控え。それから、淡々と、食い違いを並べ始めた。
記録上は贈ったことになっているが、届いていない品。記録にないのに、別の場所へ渡っている品。日付の合わない贈り物。そして、私宛てと記録されたまま、別の指に渡った指輪。
一つ、また一つ。クリストフ様は、感情を交えずに、事実だけを積み上げていった。声を荒らげもしない。誰を責める言葉も使わない。ただ、帳簿の数字を読み上げる。それだけだった。それだけで、十分だった。数字は、嘘をつかない。言い訳のように、後から都合よく形を変えたりしない。
マティアス様の顔色が、少しずつ変わっていった。
「兄上、待ってください。それは……そんな、大げさな」
出た。「大げさ」。彼の最後の砦のような言葉だ。けれど、今日ばかりは、その砦はあまりに脆かった。
「大げさかどうかは、この数字が決める」
クリストフ様は、顔も上げずに言った。
「ベルナール侯爵家への重複した品。これ一つで、当家がどれだけ侮られたか、お前は分かっているか。記録さえ正しく取られていれば、防げた。だが記録は、お前が贈り物を気分で動かすたびに、意味をなくしていった」
「それは……ローラのことは、家族同然で、僕は良かれと思って」
「家族同然」
クリストフ様が、初めて、わずかに声を低くした。
「その言葉で、お前は何度、家政を私物化してきた。贈答は、家と家の信用のやり取りだ。お前の個人的な情を通す場所ではない。記録に残った品を、記録も書き換えずに別の相手へ渡す。それは、良かれと思ったかどうかの話ではない。家の信用を、お前の都合で勝手に使った、というだけの話だ」
広間が、静まり返った。
マティアス様は、何か言い返そうとして、口を開いた。けれど、言葉が出てこなかった。彼が頼りにしてきた言葉は、もう尽きていた。「君なら分かってくれる」も、「大げさだ」も、「家族同然だから」も、この帳簿の前では、ただの音だった。
私は、黙って見ていた。
胸がすく、という気持ちが、ないと言えば嘘になる。半年のあいだ、いくら言葉を尽くしても伝わらなかったことが、今、数字の前で、勝手に証明されていく。私が訴える必要すら、なかった。私はただ、控えを残しておいただけだ。書いた物が、私の代わりに、全部語ってくれている。
けれど、その胸のすく思いと同じくらい、私はどこか、静かでもあった。マティアス様が言い訳もできずに俯いている姿を見ても、思っていたほど、痛快ではなかったのだ。彼は悪人ではない。ただ、自分が踏んでいる足に、最後まで気づかなかった人だ。気づいたときには、踏まれていた相手は、もう足の下から出ていったあとだった。それは、罰というより、ただの、当然の帰結だった。
「フィオナ嬢」
クリストフ様が、私のほうを向いた。婚約解消の手続きが進んでから、彼は私を「レオンハート嬢」と呼んでいた。けれど今、少しだけ、呼び方が変わった気がした。気のせいかもしれない。
「あなたの控えがなければ、これは闇に消えていた。礼を言う。それから、当家の者が、長くあなたを軽んじてきたことを、当主として詫びる」
クリストフ様が、頭を下げた。当主が、頭を下げた。
私は、慌てた。当主に頭を下げさせるなど、本来あってはならないことだ。
「どうか、お顔を上げてください。私は、ただ、控えを残していただけです」
「その控えを残せたのも、残そうと思えたのも、あなたが、この家を真面目に支えていたからだ。支えていなければ、控える必要もなかった」
返す言葉が、なかった。
そのとき、ずっと黙っていた母上が、静かに口を開いた。
「フィオナさん」
私は、母上のほうを向いた。
「わたくしは、ずっと見ておりました。あなたが、どんなふうに扱われてきたか。何度、口を出そうかと思ったか分かりません。けれど、出せませんでした。それを、今になって悔やんでいます。もっと早く、止めるべきでした」
母上の声には、長く飲み込んできた何かが、にじんでいた。
私は、何と答えていいか分からなかった。あの方が見ていてくれたことは、薄々、感じていた。何度か、視線で気遣われたことがあった。けれど、立場というものが、人を黙らせる。母上もまた、当主でない以上、家政に口を出せなかった。それは、責められることではない。けれど、見ていてくれた人が、今こうして詫びてくれることに、私は思いがけず、救われていた。
——救われた、という言い方も、たぶん綺麗すぎる。正しくは、こうだ。誰も見ていないと思っていた半年が、実は、誰かにはちゃんと見えていた。それが分かっただけで、あの半年が、少しだけ、報われた気がした。報われる、というのも、また綺麗な言葉だけれど、今日ばかりは、許してほしい。
マティアス様の顔から、いつもの軽さが、すっかり消えていた。
彼は俯いたまま、ひとことも発しなかった。たぶん彼は今、初めて、自分が何を失ったのかを、数えているのだろう。指輪一つの宛名すら覚えていなかった人が、今になって、勘定を始めている。遅すぎる勘定だ。けれど、勘定を始めただけ、ましなのかもしれない。
広間を出るとき、私は一度だけ、振り返った。卓の上には、二冊の帳簿が、並んだまま置かれていた。私の控えの、擦り切れた革表紙が、フェルゼン家の立派な綴りの隣で、妙に堂々として見えた。
帰りの馬車の中で、私はふと、一つのことに気づいた。
記録の上で、まだ私のものになっている指輪。あの淡い青のリボンの指輪のことを、クリストフ様は、今日の場では、一度も「返す」とは言わなかった。
言わなかったのに、なぜか私は、あの指輪が、近いうちに動く予感がしていた。