軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 あなたを見ていた

春の祝祭舞踏会の大広間は、百本の蝋燭と千の視線で満ちていた。

入口の手前で、足が止まった。

大広間から漏れる光が、回廊の石床を金色に染めている。楽団の弦の音が壁越しに聞こえる。笑い声。衣擦れの音。香水と蝋燭の蝋が混じった、社交界の匂い。

六年間、侯爵夫人として何十回と通った場所だ。けれど今夜は違う。

今夜、私はヴァルトシュタイン侯爵夫人ではない。ランベルト伯爵令嬢セシリアとして、ここに立っている。ドレスの胸元には、侯爵家の紋章ではなく、ランベルト家の小さな紋が刺繍されている。父が用意してくれたドレスだ。派手ではないが、仕立ては確かだった。

「──大丈夫か」

隣に立つディートリヒの声が、低く聞こえた。

振り向くと、ディートリヒは正装していた。見慣れない姿だった。軍服ではなく、紺色の上着に銀の飾り紐。子爵の礼装。背筋は真っ直ぐで、顔つきはいつもと変わらない。社交の場が得意でないことは知っている。それでもここに来てくれた。

「大丈夫です」

嘘だった。心臓が喉の辺りまで上がってきている。

けれど、隣にこの人がいる。それだけで、足は動いた。

大広間に入った。

視線が集まった。

わかっていた。噂は社交界の隅々まで行き渡っている。「親友の妻を略奪した子爵」と「侯爵を捨てた妻」。そういう目で見られることは覚悟していた。

扇の陰で囁き合う夫人たち。こちらをちらりと見て目を逸らす男たち。好奇と同情と、少しの嘲りが入り混じった空気。

(──六年間、この場所で微笑み続けた。今夜も同じだ。背筋を伸ばして、前を向いて、歩く)

ディートリヒが半歩前を歩いてくれている。壁になるように。意図しているのかどうかわからないが、あの広い背中が視線の何割かを遮ってくれていた。

「セシリア様」

聞き慣れた声がした。

カタリーナが、大広間の奥から歩いてきた。王妃付き女官の正装。柔らかい茶色の髪をきちんと結い上げて、穏やかな笑みを浮かべている。

「よくいらしてくださいました。王妃様がお待ちです」

カタリーナに導かれるまま、大広間の最奥へ向かった。

玉座の傍らに、王妃マルガレーテが立っていた。

四十過ぎの、落ち着いた美貌の女性だ。王冠は小ぶりで、衣装は華美ではないが、立ち姿だけで場の空気を支配している。六年間の社交で何度かお目にかかったことはあるが、直接言葉を交わしたのは片手で数えるほどだ。

膝を折り、礼をした。

「ランベルト伯爵令嬢セシリア、ご尊顔を拝し光栄に存じます」

「面を上げなさい」

王妃の声は、穏やかだった。

顔を上げると、王妃がこちらを見ていた。値踏みではない。品定めでもない。何か確かめるような目で、私の顔を見ている。

「ブルクハルト子爵領の交易額がこの半年で倍増したと聞いています。あなたの手腕によるものだと」

大広間の空気が、変わった。

王妃の声は大きくない。けれど、周囲の貴族たちの耳には確実に届いている。扇の動きが止まった。囁きが止んだ。

「過分なお言葉でございます。子爵とご家臣の方々のお力があればこそです」

「謙遜は美徳だが、過ぎれば嘘になる」

王妃が微かに笑った。

「カタリーナから詳しく聞いています。帳簿の再構築、商会の誘致、市場の整備。あなた一人で設計し、実行したそうですね」

「……恐れ入ります」

「この国には、あなたのような女性がもっと必要です。今後の活躍を楽しみにしています」

王妃が頷いた。それだけだった。長い演説ではない。短い、けれど明確な賞賛。

──その一言で、社交界の空気が塗り替わるのを、肌で感じた。

「捨てられた妻」ではない。「自ら新天地を切り開いた女性」。王妃の言葉が、噂の上に新しい評価を重ねていく。

背後で、夫人たちの囁きの色が変わった。好奇と嘲りが、関心と羨望に。

王妃の前から下がりながら、視界の端に──灰青の瞳が映った。

大広間の片隅。柱の傍に、レオンハルトが立っていた。

正装の上着。背筋の真っ直ぐな姿勢。変わらない。けれど、周囲の空気が変わっている。かつてはレオンハルトの周りに自然と人が集まっていた。今は、少し距離がある。侯爵領に王家の監察が入ったことは、もう知れ渡っているのだろう。

目が合いそうになった。

逸らした。

自分でも驚くほど自然に、視線を別の方向に向けた。六年前なら、夫の傍に歩み寄って隣に立っていた。それが妻の務めだった。今は、その義務がない。義務がないことが、こんなにも身体を軽くするのだと、初めて知った。

舞踏会の喧騒から離れて、庭園のテラスに出た。

夜風が頬に触れた。春の匂いがする。蝋燭の灯りが遠くなり、代わりに月明かりが石畳を照らしている。

ディートリヒが隣にいた。大広間では終始無言だった。社交が苦手なこの人にとって、あの場は戦場より厳しかったかもしれない。それでも最後まで隣にいてくれた。

「子爵。今夜は、ありがとうございました」

「……ああ」

短い返事。いつもの声。

けれど、何かが違った。いつもより少し、間が長い。ディートリヒは石の手すりに手を置いて、月を見ている。横顔が硬い。何か言おうとしている──けれど、言葉を探しているように見えた。

普段、この人は言葉を探さない。思ったことをそのまま、短く、出す。

「ランベルト嬢」

「はい」

「──いや」

ディートリヒが私の方を向いた。

月明かりの下で、灰色の目がまっすぐに私を見ていた。

「セシリア」

名前を呼ばれた。

初めてだった。この人が私を名前で呼んだのは。

心臓が、止まった。止まって、それから強く打った。

ディートリヒの手が伸びて、私の手を取った。

大きな手だった。指が太く、掌に剣胼胝がある。温かかった。

「あなたが侯爵夫人だった頃から、私はあなたを見ていた」

声が、いつもより低かった。けれど震えてはいなかった。一語ずつ、選びながら、置いていくように。

「あの庭を見た時から。あの茶を飲んだ時から。誰も見ていない場所に手を抜かない人だと思った。領民の陳情を一つ一つ記録している姿を見て──この人がこの領地を回しているのだと、わかった」

手紙に挟まれていた押し花が、脳裏に浮かんだ。あの紫と白の花弁。偶然ではなかった。この人は、あの庭の花を自分で摘んで、持ち帰って、押し花にして、手紙に挟んだのだ。

「だが、親友の妻だった」

ディートリヒの声が、一瞬だけ低くなった。

「だから何も言わなかった。今も、言うべきではないのかもしれない」

手を握る力が、少しだけ強くなった。

「だが──あなたがもう誰のものでもないのなら、私はあなたの隣に立ちたい」

言葉が、終わった。

夜風が吹いた。テラスの蔦が揺れる音が、やけに大きく聞こえた。

胸の奥で、六年間かけて積み上げた壁が、崩れかけていた。

「……また勘違いでは、と思ってしまいます」

声が震えた。震えていることが、自分でわかった。隠せなかった。

「六年間、優しさを愛情だと信じて、間違い続けた人間です。あなたのお気持ちが本当でも──私がそれを正しく受け取れる自信が」

「あなたの目を見ている」

ディートリヒが、一歩近づいた。

灰色の目が、月明かりの中で、まっすぐに私を見ていた。

「勘違いなどさせない」

目の奥が、熱くなった。

涙が溜まっていく。睫毛の裏で水の膜が張っていく。あの時と同じだ。けれど今回は──堪えるのが、ずっと難しかった。

落ちなかった。

まだ、落とさなかった。

「……一年」

声を絞り出した。

「待婚期間が、あと半年ほどで終わります。それまで──返事は、待ってください」

ディートリヒの目が、わずかに見開かれた。

それから──笑った。

口角を少しだけ持ち上げる、あの控えめな笑い方。あの三日間の夕食の席で、花の品種改良の話を聞いたときと同じ顔。

「──わかった。待つ」

手は、まだ繋がれたままだった。

離そうとしたら、ディートリヒの指がほんの一瞬だけ強く握って、それから静かに離れた。

テラスの向こうに、大広間の灯りが見えた。百本の蝋燭が遠くに揺れている。

手の甲に、あの人の掌の温もりが残っていた。