軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 離れなくていい

噂は、春風より早く社交界を駆け抜けた。

マリアが持ってきた手紙は三通。いずれも王都の知人からで、内容はほぼ同じだった。

ヴァルトシュタイン侯爵がブルクハルト子爵に書簡を送り、「親友の妻を奪うつもりか」と詰問した。子爵は「奪ってはいない。だが、あの人が幸せでいられる場所を守りたいとは思っている」と返答した。──その書簡の内容が、社交界に漏れた。

「子爵が親友の妻を略奪した」。そういう噂になっている。

手紙を机に置いた。指先が冷たい。

書簡のやり取りそのものは、ディートリヒから直接聞いていた。侯爵から書簡が来たこと。返書を送ったこと。内容も。ディートリヒは隠さなかった。「こう書いた」と、あの短い口調で教えてくれた。

けれど漏洩のことは、知らなかった。

「……マリア。この噂は、どちらの側から漏れたか、わかる?」

「カタリーナ様のお手紙によれば、侯爵家の家臣の誰かが社交の席で口を滑らせたのではないか、とのことです。侯爵家は最近、お嬢様がいらした頃ほど統制が取れていないと」

──私がいた頃は、家中の書簡管理は私がしていた。使用人の口が軽くならないよう、機密の等級分けも私が決めていた。それがなくなった結果が、これか。

(自業自得だ、とは思わない。思いたくない。でも──)

思ってしまった。一瞬だけ。

それよりも、先に考えるべきことがある。

ディートリヒの名が傷ついている。

「親友の妻を略奪した子爵」。あの人は何も奪っていない。私が自分で離縁を選び、自分の足でここに来た。なのにあの人が、私のせいで社交界の嘲笑を浴びている。

椅子から立ち上がった。

「マリア。荷物をまとめて」

「え……お嬢様?」

「ここを出る。私がいるから、子爵に迷惑がかかっている。これ以上──」

「お嬢様!」

マリアが声を上げた。泣きそうな顔をしている。

「お嬢様、またそうやって──ご自分を追い詰めないでください」

マリアの目が真っ赤だった。この子はいつも、私より先に泣く。

「追い詰めてはいない。事実を見ているだけ」

「事実って──お嬢様が悪いんですか。噂を流したのはお嬢様ではないでしょう」

正論だった。けれど正論で噂は消えない。

「ディートリヒ子爵に、ご挨拶をしてくる」

部屋を出た。

ディートリヒは、あの荒れた庭園にいた。

石組みの小道に立って、雑草の間から顔を出した小さな花を見下ろしている。私が先月、試しに植えてみた苗だ。根づくかわからなかったが、一輪だけ、白い花をつけていた。

「子爵」

声をかけると、ディートリヒが振り向いた。

「おはよう」

いつもと同じ声だった。噂のことを気にしている様子がない。──いや、気にしていないのではなく、気にしていることを見せない人なのだ。軍人とはそういうものなのかもしれない。

「お話があります」

「ああ」

「──この領地を、去ろうと思います」

ディートリヒの目が、わずかに動いた。

「私がここにいることで、子爵のお名前に傷がついています。略奪などという噂が──」

「知っている」

「でしたら──」

「噂は知っている。俺が書いた返書の内容も、漏れたことも」

ディートリヒの声は変わらなかった。低く、落ち着いて、平坦に。

「だから何だ」

──え。

「噂が立った。それで?」

「それで、というのは──子爵のお立場が」

「立場は俺の問題だ。あんたの問題じゃない」

あんた、とディートリヒは言った。いつもは「ランベルト嬢」か、言葉を省いて呼びかけなしで話す人が。

「でも、私がいなければ──」

「離れなくていい」

言葉が、止まった。

ディートリヒは私を見ていた。灰色の目。飾りのない、まっすぐな視線。

離れなくていい。

理由は言わなかった。契約がまだ残っているからとも、仕事が途中だからとも言わなかった。ただ、離れなくていい。それだけ。

胸の奥で、何かが壊れかけた。

六年間かけて固めた壁に、亀裂が入った音がした。亀裂の向こう側から、温かいものが滲み出してくる。止められない。止めなきゃいけないのに。

目の奥が、熱くなった。

涙が溜まっていくのがわかった。睫毛の裏に、水の膜が張っていく。

──落とすな。

瞬きを一つ。強く。涙の膜を押し戻した。

落ちなかった。落とさなかった。

「……ありがとう、ございます」

声が掠れた。掠れたことに気づいて、一つ咳払いをした。

ディートリヒは何も言わなかった。ただ頷いた。

荒れた庭園に、春の風が吹いた。白い花が一輪、小さく揺れていた。

夜。別邸の書斎で、一人になった。

机の上に、カタリーナからの手紙がもう一通ある。噂の報告とは別の便で届いたものだ。

封を切った。

『セシリア様

王妃様がセシリア様の交易改革にご関心を持っておいでです。

ブルクハルト子爵領の交易額がこの半年で著しく伸びたことが、

王家の記録に上がっております。

春の祝祭舞踏会にご参内なさいませんか。

王妃様が直接お話しになりたいと仰っています。

カタリーナ・ベッカー』

手紙を二度読んだ。

王妃が。私の交易改革に。

信じがたかった。けれどカタリーナは嘘を書く人ではない。六年間の社交で築いた信頼が、今この形で返ってきている。

手紙を閉じて、窓の外を見た。

暗い庭園の向こうに、子爵の居城の灯りが一つ見える。執務室の灯りだ。ディートリヒはまだ仕事をしているのだろう。

(「考え直してくれないか」)

あの日、レオンハルトが言った言葉が浮かんだ。

(「離れなくていい」)

今日、ディートリヒが言った言葉が重なった。

どちらも、引き止めの言葉だ。形だけ見れば、同じだ。

──けれど、全く違う。

「考え直してくれないか」は、私の選択を覆そうとする言葉だった。私が決めたことを、やめてくれと言っていた。あの人が困るから。あの人の家が回らなくなるから。私を必要としていたのではない。私の機能を必要としていた。

「離れなくていい」は、違う。

私の選択を尊重した上で、ここにいることを許してくれた言葉だ。去りたければ去ればいい。けれど、去る理由が「迷惑をかけるから」なら、その心配はいらない。ここにいていい。

必要としているのではなく、いることを許している。

その違いが──たった一言の違いが、こんなにも胸を打つのは、六年間の渇きのせいだ。

(また勘違いかもしれない。六年前、レオンハルトの礼節を愛情だと信じて、結局何もなかった。優しさの形を見るたびに、そこに愛情を読み取ろうとしてしまう。私の目は、信用できない)

──でも。

(でも、あの人は理由を言わなかった。契約があるからとも、仕事が途中だからとも言わなかった。ただ「離れなくていい」と。もしあれが仕事上の判断なら、合理的な理由を添えるはずだ。あの人は軍人で、判断には必ず根拠をつける人だ。それなのに、理由なく──)

考えるのをやめた。

今は考えても答えが出ない。出してはいけない気もする。

カタリーナの手紙を、もう一度開いた。

春の祝祭舞踏会。社交界の表舞台。噂が渦巻くその場所に、出ていく。

怖い。

けれど、隠れていても噂は消えない。ならば、自分の足で立って、自分の仕事の成果を見せるしかない。

ペンを取った。カタリーナへの返書を書く。

『参内いたします。お力添えに感謝します。──セシリア』

短い返事だ。けれど、これで十分だろう。

封をして、机に置いた。

暖炉の火が、ぱちりと鳴った。

──あの夜も、こんな音がした。薪を足しに来てくれた人がいた。理由も言わず、ただ部屋を暖かくして、去っていった。

あの温もりと、今日の「離れなくていい」が、同じ場所から来ているのだとしたら。

……もう少しだけ、ここにいよう。

もう少しだけ。