軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九話 取り返そうとした手

ハーグ様が、数人の供を連れて、ザイデ村に乗り込んできたのは、よく晴れた昼下がりのことだった。

ちょうど、アルヴィス様が、近隣の村への支払いの交渉に出かけていた、その隙を狙ったように。あとから思えば、それは、偶然ではなかったのだろう。屋敷側には、まだ、こちらの動きを伝える者が、残っていたのだ。

「ロナン様を、お迎えにあがった」と、ハーグ様は、馬を下りるなり、芝居がかった慇懃さで言った。「裁定の場に、跡継ぎが、こんな辺鄙な村に置かれているなど、外聞が悪い。正統な後継として、しかるべき屋敷で、お預かりする」

白々しい、と思った。屋敷で、この子をどれだけ冷たく扱ってきたか。それを、私は、誰よりも近くで見てきた。

ロナンが、私の背に、ぴたりと身を寄せた。小さな手が、私の上着を、痛いほど強く握りしめている。その震えを背中に感じながら、私は、できるだけ静かに、けれど一歩も引かずに、ハーグ様の前に立った。

「お断りします」と、私は言った。「この子の後見人は、私です。後見人の同意なく、ロナン様をどこかへ連れ去ることは、誰にも、できません。たとえ、ご親族であっても」

「同意?」と、ハーグ様は、嗤った。「そんなものは、すぐに、どうとでもなる」

彼は、懐から、一枚の書面を取り出した。

「ここに、後見人の引き継ぎの届けがある。あんたから、屋敷の新たな後見人へ、ロナン様の後見を譲り渡す、という届けだ。あんたの署名も、ちゃんと、入っている」

私は、その紙を見て、息を呑んだ。

そこには、確かに、私の名が――いや、私の名を、誰かが真似て書いた、署名らしきものが、記されていた。けれど、それは、私の字では、なかった。三年、毎日帳面に書き続けてきた、自分の筆跡を、私が見間違えるはずがない。

「……これは、私の署名では、ありません」と、私は、声を絞り出した。

「何を言う。あんたの名が、書いてあるだろう」

「字が、違います」と、私は、まっすぐに、ハーグ様の目を見た。「私は、三年、この領の帳面を、一字一句、自分の手でつけてきました。その筆跡は、宗主家の役所にも、商人の控えにも、いくらでも残っています。この署名と、それを、突き合わせてください。一目で、わかります。――これは、偽造です」

ハーグ様の顔から、すっと、血の気が引いた。

彼は、署名さえあれば、後見など、いくらでも挿げ替えられると思っていたのだろう。けれど、皮肉なことに、私が三年、役に立たねばと怯えながら積み重ねてきた、おびただしい量の筆跡こそが、この偽造を、暴く証拠になっていた。本物が、これほど大量に残っている以上、偽物は、隠しようがない。

「コルム殿は、ご在席です」と、私は、続けた。「宗主家の監察官の前で、この届けを、お示しになりますか。後見人の同意を、偽って作る――それが、どれほどの罪か。ハーグ様なら、おわかりでしょう」

ハーグ様の額に、汗が滲んだ。

彼は、ここで、退くべきだった。けれど、焦りは、人から、退き際を奪う。自分の系統を、ヴァルダ家の領主に据える――その悲願が、もう、あと一歩のところまで来ていると、信じ込んでいたのだろう。彼は、なりふりを、構わなくなった。

「……問答無用だ。おい、その子を、連れていけ」

供の男たちが、ロナンへ、手を伸ばした。

「いやだ!」

その瞬間、私の背中で、ロナンが、叫んだ。

それは、屋敷の隅で、ずっと息を殺してきた子が、生まれて初めて、腹の底から振り絞った、声だった。子どもは、私の上着をつかんでいた手を離すと、ハーグ様の前に、ぱっと、自分から進み出た。小さな体を、精いっぱい、突っ張らせて。

「ぼくは、いかない。ぼくは、ミレイアと、おじさまと、いっしょにいる!」

その声に、伸ばされた供の手が、思わず、止まった。

「ぼくの、りょうちだ。ぼくが、まもるって、きめたんだ。だから……だから、かってに、つれていくな!」

幼い、たどたどしい言葉だった。けれど、それは、まぎれもなく、ヴァルダ領の正統な跡継ぎの、意思の表明だった。両親を失い、誰にも望まれないと思い込んでいた子が、いま、自分の足で立ち、自分の領と、自分の居場所を、守ろうとしている。

私は、その小さな背中を見つめながら、不覚にも、涙が、こみ上げた。

そして、その一部始終を――村の辻に出てきていた、コルム殿が、しかと、見届けていた。

「……ハーグ殿」と、コルム殿が、静かに歩み出た。「いま、私は、たいへんなものを見せてもらった。後見人の同意を偽った、偽造の届け。それを盾にした、跡継ぎの、力ずくの連れ去り。しかも、当の跡継ぎご本人が、はっきりと、拒んでおられる。――これを、宗主家への、正式な報告に、加えさせてもらう」

ハーグ様は、もう、何も言えなかった。

退くべき時に退かず、最後の最後で、いちばん見られてはならない手を、いちばん見られてはならない相手の前で、晒してしまった。横領に、後見の偽造、跡継ぎの略取未遂。それらが、宗主家の監察官の目の前で、すべて、つながってしまったのだ。供の男たちは、気まずそうに目を伏せ、ハーグ様は、青ざめた顔で、村を後にするしか、なかった。

その夜、交渉から戻ったアルヴィス様は、昼間の出来事を聞くと、しばらく、言葉を失っていた。

それから、彼は、眠ったロナンの寝顔を、長いこと、見つめた。

「……この子が、自分で、立ったのか」

「ええ」と、私は頷いた。「私が、何かを言うより、先に。あの子が、自分の言葉で、自分の場所を、守りました」

アルヴィス様は、そっと、ロナンの髪を撫でた。その手つきは、もう、屋敷にいた頃の、遠慮がちなものでは、なかった。

「君が、この三年、この子に、何を与えてきたのか。いま、はっきりと、わかった気がする」と、彼は、低く言った。「怯えるだけだった子が、自分の意思で、声を上げられるようになった。それは、君が毎日、この子の言葉を、ちゃんと聞いてきたからだ」

彼は、立ち上がると、私の方へ、向き直った。

囲炉裏の火が、その真剣な横顔を、赤く照らしていた。

「ミレイア。裁定が終わったら――いや、その前に、君に、言っておきたいことがある」

胸が、とくん、と鳴った。

「私は、君を、形式だけの妻の座に、戻したいのではない。世継ぎが育つまでの、つなぎの妻に、また、してしまうのでもない。――そうではなくて」

彼は、一度、言葉を切り、それから、まっすぐに、私を見た。

「対等な相手として、これからの長い時間を、君と、ロナンと、三人で――本当の家族として、生きていきたい。そう、願っている」

息が、止まった。

ずっと、役目で結ばれただけの関係だった。情を交わすことなど、決して許されないと思っていた、白い結婚。その相手が、いま、形ではなく、心で、私を求めている。

けれど――私は、すぐには、頷けなかった。

「……お返事は」と、私は、震える声で言った。「裁定が、終わってから。すべてが、片づいて、私が、何にも怯えず、自分の心と、まっすぐ向き合えるように、なってから。――それまで、待っていただけますか」

逃げたわけでは、なかった。ただ、この、生まれて初めて差し出された、あたたかいものを、恐れや混乱の残ったままの心で、受け取りたくなかった。きちんと、まっさらな気持ちで、自分の意思で、頷きたかった。

アルヴィス様は、私のその言葉の意味を、正しく、汲み取ってくれた。

「ああ」と、彼は、やわらかく笑った。「いくらでも、待つ。君が、君自身の心で、答えを出せるまで」

明日は、いよいよ、宗主家の裁定の場が、開かれる。

横領も、偽造も、略取も、すべての糸が、明るみに出る。そして、ロナンの相続と、私の後見が、正式に、定められる。

長い、戦いだった。けれど、もう、終わりが、見えていた。

眠るロナンの、穏やかな寝息を聞きながら、私は、明日のために、最後の証を、そっと、胸に抱きしめた。