軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八話 証拠は余白にある

夏の山を、どうにか越せる目処がついた頃、私はようやく、後回しにしていた仕事に、本腰を入れることができた。

横領の、証立てだ。

領を立て直す采配に追われるあいだも、私は、それを片時も忘れてはいなかった。誰かを陥れるためではない。減らされた配給に泣いた人々の暮らしを、二度と、同じ手で削らせないために。怒りを、声ではなく、動かぬ証に変える。それが、三年、この領の帳面を守ってきた私の、ただひとつの戦い方だった。

村長の家の卓に、私は、三つの記録を並べた。

ひとつは、私自身がつけてきた、三年分の管理記録。もうひとつは、アルヴィス様が屋敷から持ち出した、領の出納帳。そして最後に、コルム殿が宗主家の権限で取り寄せた、領に出入りする商人たちの、取引の控えだった。

「……同じ品が、二重に買われている」

帳面を照らし合わせるうち、私は、最初の食い違いに気づいた。

「ここを見てください。屋敷の出納帳には、ある月、塩を大量に買い付けた、と記されています。けれど、私の管理記録では、その月、村々に配られた塩の量は、ごくわずか。買った塩と、配られた塩。その差が、どこにも記録されないまま、消えている」

「買ったことにして、金だけ抜いたか」と、アルヴィス様が、低く唸った。「あるいは、買った塩を、横へ流して、二重に儲けたか」

「商人の控えと、突き合わせれば、はっきりします」と、コルム殿が、三つ目の束をめくった。

商人の控えには、屋敷が「買った」とされる塩の、本当の取引額が記されていた。出納帳に書かれた額の、半分にも満たない。差額は、誰かの懐に、まっすぐ流れ込んでいた。一件、また一件と、私たちは、同じ手口を、丹念に拾い上げていった。塩。麦。布。蝋。その一つひとつが、村に届くはずだったものだ。

けれど、肝心なところで、私たちは、壁に突き当たった。

「……決め手が、足りない」と、コルム殿が、腕を組んだ。「金が抜かれているのは、もう疑いようがない。だが、これだけでは、誰が抜いたかを、言い切れぬ。出納帳に判を押しているのは、屋敷の代官の名だ。オデッタ殿が、自分の手で書き込んだ証は、どこにもない。『代官が勝手にやったこと』と言い逃れられれば、それまでだ」

私は、唇を噛んだ。確かに、その通りだった。一連の不正の、すべての糸を握っているのがオデッタ様であることは、状況から見て、間違いない。けれど、状況だけでは、人を裁けない。必要なのは、彼女自身が、確かにその場にいて、確かにその手で動かしたという、動かぬ一点だった。

卓の上の記録を、私は、もう一度、端から見直した。何か、見落としているはずだ。三年、この帳面をつけてきた私になら、気づけるはずの、何かが。

そのとき、ふと、私の目が、ある一行で、止まった。

それは、横領の記録ではなかった。私が、ロナンの養育記録に書きつけた、ただの覚え書きだった。

――「この夜、ロナン様、高熱。明け方まで看病。屋敷じゅう、人払い」

その日付を見た瞬間、心臓が、とくん、と鳴った。私は、震える指で、出納帳の同じ日付の頁を、急いで繰った。

あった。

その夜――ロナンが高熱で寝込み、私がつきっきりで看病し、屋敷から人が払われていた、まさにその夜に、出納帳には、ひときわ大きな塩の「買い付け」が、書き込まれていた。

「……この夜です」と、私は、声を震わせた。「この夜、私は、ロナン様の熱で、明け方まで一睡もせず、看病していました。屋敷じゅうに人払いがされて、廊下を歩く者すらいなかった。なのに、この帳簿には、その同じ夜、誰かが蔵に入り、大量の塩を動かしたことに、なっている」

「人払いをして、人目のない夜に、自ら蔵を検め、数字を書き換えた……」と、コルム殿が、ゆっくりと頷いた。「代官如きに、屋敷じゅうの人払いを命じる権など、ない。それができるのは、家政のすべてを握る、ただ一人――」

「オデッタ様だけです」と、私は、後を引き取った。

「――だが」と、コルム殿は、すぐに、慎重な顔に戻った。「それでも、いまのは『人払いを命じられるのは彼女しかいない』という、筋の通った推し量りにすぎぬ。裁定の場で言い逃れられぬためには、もう一押し、動かぬ物が要る」

その通りだった。ひらめきだけでは、人は裁けない。私は、集めておいた記録の束を、もう一度、端から手繰った。そして――見つけた。

「蔵の、鍵の持ち出し簿です」と、私は、一冊を抜き出して、開いた。「この屋敷では、蔵を開けるたびに、誰が鍵を持ち出したかを簿に記し、印を押す決まりになっています。その、人払いの夜の欄に――オデッタ様の、私印が、押されています」

さらに、コルム殿が取り寄せた商人の控えの、同じ日付の頁を、私は指さした。

「そして、こちらを。屋敷が『買った』とされる、その夜の塩。それを商人から受け取った者の名が、ここに残っています。――オデッタ様の、侍女の名です」

人払いを命じ、自ら蔵の鍵を持ち出し、侍女に受け取らせて、帳簿の数字だけを膨らませる。ひとつ、ひとつは、なんの変哲もない記録だった。けれど、同じ夜の一点で重なったとき、それは、もう、言い逃れようのない跡に、なっていた。

「……筋ではなく、跡が、残りました」と、私は言った。

コルム殿が、深く頷いた。

「うむ。これなら、裁定に耐える。推し量りではない、動かぬ証だ」

ロナンの熱が、その夜の人払いを、証言していた。

私が、ただ子どもの体を案じて書きとめた、なんの変哲もない一行が、めぐりめぐって、横領のいちばん硬い扉を、こじ開ける鍵になった。三年、誰に見せるでもなく、ただ毎日積んできた記録。その余白の片隅に、決め手は、ずっと眠っていたのだ。

私は、その養育記録を、そっと両手で包んだ。役に立たねば、ここにいてはいけない――そう怯えながら、しがみつくように続けてきた記録づけ。それが、いま、この子の領を、この子の暮らしを、守ろうとしている。私のしてきたことは、無駄ではなかった。そう思えた瞬間、目の奥が、つんと熱くなった。

その夜、ロナンが眠ったあと、囲炉裏端には、私とアルヴィス様だけが残った。

コルム殿は、宗主家へ裁定を求める上申のため、証を清書しに、役所へ戻っていた。火のはぜる音だけが、静かに響いていた。

「……一つ、お礼を、申し上げていませんでした」と、私は、火を見つめたまま、言った。

「礼?」

「あなたが、戻ってきてくださったとき。私は、本当は――怖かったのです

言葉が、思いのほか、するりとこぼれた。

「離縁を撤回して、力ずくで私を妻に戻し、ロナン様を屋敷へ連れ帰る。あなたが、そういう人だったら、と。そうなれば、私は、また、息を殺して生きるしかない。あの子も。――けれど、あなたは、そうしなかった。私に、どうしたいかを、訊いてくれた」

私は、そこで、一度、言葉を切った。胸の奥のいちばん柔らかいところを、自分の口で、言葉にするのは、ひどく勇気が要った。

「子を取り返すことよりも――あなたが、あの子を、私から取り上げなかったこと。それが、いちばん、こたえました。こんなに、誰かに大事にされていると感じたのは、生まれて、初めてです」

言い終えて、私は、自分の頬が、火のせいだけではなく、熱くなっているのを感じた。

アルヴィス様は、しばらく、何も言わなかった。

それから、ぽつりと、こぼした。

「……私のほうこそ、礼を言わねばならない」

「え」

「兄夫婦が亡くなって、私は、爵位も、領も、あの子も、何もかもを、いっぺんに背負わされた。正直、あの子に、どう接していいか、わからなかった。だから――逃げていた。国境の調停にかこつけて、屋敷を、空けてばかりいた」

火明かりに、彼の横顔が、揺れた。いつも毅然としているその顔に、初めて、迷子のような色が、滲んでいた。

「そんな私の代わりに、あの子のそばに、毎晩いてくれたのは、君だ。梨を煮て、熱を冷まして、眠れない夜に、灯りをひとつ、残してくれた。――私は、君の記録を読むことでしか、あの子に、近づけなかった。情けない叔父だ」

「情けなくなんて、ありません」と、私は、思わず、強く言った。「あなたは、ちゃんと、戻ってきてくださいました。役目を放り出してでも。それが、何よりの、答えです」

アルヴィス様が、こちらを見た。火の向こうで、二人の視線が、ぶつかった。

ほんの少しだけ、互いの距離が、近づいた気がした。けれど、どちらも、それ以上は動かなかった。動けなかった、というほうが、正しいかもしれない。明日には、裁定の場が待っている。すべてが片づくまでは――この、ようやく芽生えたものに、名前をつけるのが、こわかった。

翌朝、コルム殿から、知らせが届いた。

集めた証をもとに、宗主家が、ついに、正式な裁定の場を開くと決めた、という知らせだった。オデッタ様の横領を、ロナンの相続を、そして、私の後見を――そのすべてを、一度に、明らかにする場が。

けれど、その知らせと、ほとんど入れ違いに、もう一つ、村に、不穏な報が飛び込んできた。

ハーグ様が、屋敷から、数人の供を連れて、こちらへ向かっている――裁定の前に、何としても、ロナンを、その手に取り戻すために。