作品タイトル不明
第七話 空っぽの蔵
梅雨は、結局、例年より半月も早く明けてしまった。
夏の陽が、容赦なく乾いた土を焼きはじめると、領のあちこちから、悲鳴に近い知らせが届くようになった。井戸の水位が、もう底を見せている村。蒔いた種が、芽のうちに枯れかけている畑。そして、何より深刻だったのは――いざというときのために積んであるはずの、領の備蓄が、ほとんど空だということだった。
ザイデ村の蔵を、私はコルム殿と一緒に検めにいった。屋敷の代官が管理しているはずの、麦と塩の蓄え。けれど、扉を開けてみれば、広い蔵の中に残っていたのは、本来あるべき量の、半分にも満たない、わずかな俵だけだった。
がらんとした蔵の暗がりを前に、私は、しばらく言葉を失った。三年分の帳面の上では、ここに、もっと積まれているはずだった。帳面の数字と、目の前の現実が、これほどはっきりと食い違ったことは、なかった。横領で抜かれた分が、よりにもよって、この乾いた夏に、命取りになろうとしている。
知らせを聞きつけて、オデッタ様が、屋敷から村へ乗り込んできたのは、その翌日のことだった。
「これは、いったいどういうこと!」と、彼女は、馬車を降りるなり、声を張り上げた。「領が、こんなありさまになっているのは、後見人を名乗るあなたが、跡継ぎを連れて勝手に出ていったせいでしょう。あなたが領を引っかき回したから、こんな混乱が起きたのよ」
責任を、私に着せようとしている。けれど、その声の張りには、どこか、上滑りした焦りがあった。自分が抜いた分が、こんなに早く露見するとは、思っていなかったのだろう。
「……オデッタ様」と、私は、できるだけ静かに言った。「では、お尋ねします。私がこの村へ移ったのは、初夏のこと。けれど、蔵の備蓄が減りはじめていたのは、もっとずっと前――二年も前から、少しずつ、です。私が出ていったから蔵が空になったのなら、なぜ、私がまだ屋敷にいた二年前から、数字が合わなくなっているのでしょうか」
オデッタ様の頬が、ぴくりと引きつった。
「それは……記録の、つけ間違いでしょう」
「私は、記録のつけ間違いを、三年、一度もしておりません」と、私は答えた。声を荒らげはしなかった。ただ、事実だけを、まっすぐに置いた。「もし、お疑いなら、宗主家のコルム殿に、私の帳面と、屋敷の出納帳を、両方お検めいただきましょう。どちらの数字が正しいか――それは、紙が、教えてくれます」
オデッタ様は、それ以上、言葉を継げなかった。責任転嫁の足場が、自分の積み上げた嘘の時系列によって、内側から崩れていく。その音を、たぶん、彼女自身が、いちばん近くで聞いていた。
けれど、犯人捜しをしている暇は、なかった。
いま、この瞬間にも、領のあちこちで、人々が乾いた夏に追い詰められている。誰を責めるかより先に、どうやってこの夏を越すかを、決めなければならなかった。
私は、その晩、村長の家に、三年分の帳面と、領じゅうの井戸と畑の覚え書きを、ぜんぶ広げた。そして、アルヴィス様とコルム殿を前に、ひとつずつ、組み立てていった。
「残った備蓄では、領のすべての村を、同じようには支えられません。だから――優先を、つけます」
言いながら、胸が痛んだ。優先をつけるとは、裏を返せば、後回しにする村を決める、ということだ。
「水の涸れかけた村から、先に。井戸の深い、まだ余力のある村には、申し訳ないけれど、しばらく辛抱してもらいます。徴税は、刈り入れの遅い村から順に、ひと月、ふた月と繰り延べる。商人への支払いは、利息を払ってでも、秋の収穫まで待ってもらう交渉をします。――どれも、痛みを伴います。けれど、誰も彼もを一度に救おうとして、結局、全員が共倒れになるのが、いちばん、いけない」
それは、魔法のような解決では、なかった。限られた水を、限られた麦を、どこへ先に回すか。誰に、どれだけ我慢してもらうか。その、苦い取捨の連続だった。けれど、三年、この領の数字を見てきた私には、どの村が、あと何日もちこたえられるか、手に取るようにわかった。その勘だけは、誰にも負けない自信があった。
「――いい采配だ」
黙って聞いていたアルヴィス様が、低く言った。
「君の言う通りにしよう。だが、君ひとりに、全部を背負わせはしない」
彼は、広げた覚え書きの一枚を、自分の方へ引き寄せた。
「村々を回って、辛抱を頼んで歩く役は、私がやる。領主が直々に頭を下げて回れば、辛抱してくれる村も、出てくるだろう。商人との支払いの交渉も、私が出る。君は、ここで、全体の采配に集中してくれ。――守るんじゃない。分けるんだ。君の重荷を、半分、私に」
私は、その言葉に、不意を突かれた。
守る、ではなく、分ける。これまで、私はいつも、ひとりで全部を抱えてきた。誰かに頼れば、頼った分だけ、自分の価値が削られる気がして。けれど、この人は、私の役目を奪うのでも、肩代わりするのでもなく、ただ、隣に立って、重荷の片端を、当たり前のように持とうとしている。
「……よろしいの、ですか」と、私は、つい、声を震わせてしまった。
「当たり前だ」と、アルヴィス様は、少しだけ笑った。「夫婦でなくなっても、私たちは、同じ子の後見と養育を担う者同士だ。荷を分け合うのに、理由が要るか」
夜を徹して、采配を組んだ。
私が割り当てを書き出し、アルヴィス様が回る順を決め、コルム殿が宗主家の名で交渉に箔をつけられる村を選び出す。三人の手が、ひとつの灯りの下で、休みなく動いた。
そのうち、眠れないロナンが、また、そっと部屋を覗きにきた。けれど今度は、戸口で立ち止まらず、まっすぐ私たちのところへ歩いてきて、広げた覚え書きを、じっと見下ろした。
「……ぼくの、りょうち?」と、子どもは、たどたどしく訊いた。
「そうよ」と、私は答えた。「あなたが、いつか継ぐ領地。その領地が、いま、少し困っているの」
ロナンは、しばらく、難しい顔で、村々の名が並んだ紙を見つめていた。それから、ふいに、小さな、けれどはっきりとした声で言った。
「……ぼくの、りょうちを、たすけて」
それは、八歳の子どもの、せいいっぱいの言葉だった。屋敷の隅で、いつも息を殺し、自分のせいだと怯えてばかりいた子が、初めて、跡継ぎとして、自分の領と、そこに住む人々のために、声を上げた。
私と、アルヴィス様と、コルム殿は、思わず顔を見合わせた。
「ああ」と、アルヴィス様が、ロナンの頭に、そっと手を置いた。「助けるとも。お前の領地だ。三人で、必ず、守り抜く」
翌朝から、私たちは、動いた。
アルヴィス様は、夜明けとともに馬に乗り、村から村へ、頭を下げて回った。コルム殿は、宗主家の名で、商人たちとの交渉の場に立った。私は、村長の家に詰めて、刻々と届く知らせに合わせて、水と麦の割り当てを、一刻ごとに組み替え続けた。
そして、三日目の夕暮れ。
いちばん最初に水の涸れかけていた、北の小さな村の井戸に、繰り回した分の水が届いた、という知らせが入った。涸れた井戸の底に、再び水が滲み、村人たちが、汲み上げた最初の一杯を、子どもに飲ませている――そう聞いたとき、私は、村長の家の土間に座り込んだまま、しばらく、立ち上がれなかった。
間に合った。少なくとも、最初のひとつは。
張りつめていたものが、どっと抜けて、気づけば、頬を、涙が伝っていた。役目を果たせた安堵か、それとも、この三日、ずっと一人ではなかったという心細さの裏返しか、自分でも、よくわからなかった。
そっと、肩に、温かいものが触れた。アルヴィス様の手だった。彼は、何も言わなかった。ただ、その手の重みだけで、よくやった、と言ってくれている気がした。
けれど、その安堵の片隅で、私は、別の影が、静かに動きはじめているのを、まだ知らなかった。
領が、私たち三人の采配で持ち直しつつあること。それを、屋敷で歯噛みして見ていた者が、いたこと。
跡継ぎの座を、このまま諦めるわけにはいかない――ハーグ様が、焦りに駆られて、もっとも危うい一手に、手をかけようとしていたことを。