軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第六話 偽りの跡継ぎ

梅雨の晴れ間が続いたある日、村の役所に、屋敷からの使者が、一通の届けを持ち込んできた。

コルム殿が、それを受け取って中をあらためるなり、めずらしく、はっきりと眉をひそめた。

「……オデッタ殿が、新たな跡継ぎを立てる届けを出してきた」と、彼は紙面を私とアルヴィス様に示した。「ハーグ殿の子を、ヴァルダ家の養子とし、次期領主に据える――そう、書いてある」

私は、息を呑んだ。離縁を既成事実にし、私とロナンを領の外へ押しやったうえで、自分たちの血を引く子を跡継ぎに立てる。それが、あの人たちの描いていた絵図の、最後の一筆だったのだ。

ロナンが、私の隣で、不安げに見上げてきた。自分の代わりに、別の子が跡継ぎになる――幼いなりに、その意味を、なんとなく察したのだろう。私は、その肩にそっと手を置いて、できるだけ落ち着いた声で言った。

「大丈夫。あなたの場所は、誰にも、渡さないから」

「――いや、そもそも、この届けは通らない」

静かにそう言ったのは、コルム殿だった。彼は、宗主家の役人らしい、冷静な口調で続けた。

「いいか。ヴァルダ家の正統な跡継ぎは、すでに宗主家が、ロナン様お一人と承認しておられる。前辺境伯の血を引く、唯一の直系。その承認が生きているかぎり、別の子を養子に立てて跡継ぎとするには、まず宗主家が、ロナン様の継承資格を取り消さねばならぬ。だが――」

「だが、その取り消しには、相応の理由が要る」と、アルヴィス様が後を引き取った。「ロナンには、資格を取り消されるような落ち度は、何ひとつない。ただ、両親を亡くしただけの、正統な跡継ぎだ。理由のない取り消しを、宗主家が認めるはずがない」

二人の言葉が、私の中で、ひとつの確かな形を結んだ。

オデッタ様たちは、制度を、自分たちの都合のいいように動かせると思い込んでいた。けれど、制度というのは、本来、立場の弱い者を守るためにこそ、頑なに作られている。正統な跡継ぎを、理由もなく挿げ替えることなど、できはしないのだ。

それでもなお、と私は思った。これだけでは、まだ足りない。

「コルム殿」と、私は口を開いた。「もう一つ、申し上げておきたいことがございます。仮に――仮に、宗主家がロナン様の資格取り消しを検討するとしても、ロナン様には、私という後見人がついております。後見下にある子の身分を左右する手続きには、後見人の同意が要るはず。私は、ロナン様を別の子に挿げ替えることに、断じて、同意いたしません」

コルム殿が、ふっと口の端をゆるめた。

「……その通りだ、後見人どの。私が言おうとしていたことを、先に言われた」と、彼は頷いた。「養子の届けには、本来、後見人の連署が要る。だが、この届けに、あなたの署名はない。つまり、これは――手続きそのものが、初めから欠けている。通しようがない」

私は、ほっと、肩の力を抜いた。後見が離縁で消えないという、あの役所での確認が、いま、こうして二重の盾になって、ロナンを守っている。あの日、震える指で写しを差し出した自分を、少しだけ、褒めてやりたくなった。

数日後、宗主家の正式な査察の場が、村の役所に設けられた。

屋敷側からは、オデッタ様が立てた代理人――先日、備蓄の数字を一つも答えられなかった、あの如才なさそうな男が、再び出てきていた。今日こそは、と意気込んできたのだろう。けれど、コルム殿の問いは、容赦がなかった。

「では、屋敷側に問う。新たに跡継ぎに立てるという、ハーグ殿の子。その子は、ヴァルダ領の差配について、何を学んでいる。徴税の仕組みは。備蓄の管理は。領民の数は」

「……それは、これから、追って教育を」

「では、現に領を回す段取りは、いま、誰がつけている」

「……屋敷の、家令どもが」

「その家令どもは、なぜ、先日の問いに何ひとつ答えられなかった」

代理人は、口をぱくぱくと動かしたまま、言葉を継げなくなった。役所に集まった村の者たちの間から、低いざわめきが広がる。領を担うと名乗り出た側が、領のことを何ひとつ知らない。その滑稽さと、それでいて自分たちの暮らしを左右されてきた理不尽さに、人々の目は、だんだんと険しくなっていった。

そのとき、アルヴィス様が、静かに立ち上がった。

「コルム殿。この場で、はっきりさせておきたいことがある」

彼は、私の方を見て、それから、役所に集まった人々を、ゆっくりと見渡した。

「この三年、ヴァルダ領の台所を、実際に支えてきたのは、ここにいるミレイア・ケラー――ロナンの後見人だ。徴税の段取りも、備蓄の割り当ても、井戸の補修の手配も、すべて彼女が担ってきた。私が国境の調停で領を空けているあいだ、領が回っていたのは、ひとえに彼女の働きによる。それを、私は、領主として、はっきりと証言する」

私は、思わず、息を止めた。

公の場で、これほどまっすぐに、私の仕事を認める言葉を聞くとは、思っていなかった。しかも、それを「自分の妻だから」ではなく、「ロナンの後見人」「領を支えた者」として語る。手柄を自分のものにもせず、私を立場の弱い妻の座に押し込めもせず、ただ、私がしてきたことを、してきたままに証言する。その公平さが、胸の奥を、じんと熱くした。

「……出過ぎたことを、と思われませんでしたか」

査察が散会したあと、私は、こっそりとアルヴィス様に尋ねた。領主が、代官筋の女の働きを、人前であれほど持ち上げる。それが、彼の立場を悪くしはしないかと、つい案じてしまったのだ。

けれど、アルヴィス様は、不思議そうに首を傾げた。

「事実を、事実として言っただけだ」と、彼は言った。「君がしてきたことを、私のものにするほうが、よほど出過ぎている。――それに」

彼は、少しだけ言い淀んでから、続けた。

「君が、自分の手柄を、いつも誰かに譲ってしまう癖があるのは、見ていればわかる。役に立たねば、ここにいてはいけない――そう思い込んでいるような、危うさがある。だから、一度くらい、誰かが、君のしてきたことを、きちんと言葉にすべきだと思った。それだけだ」

見抜かれていた。私が、自分でも持て余している、いちばん柔らかい部分を。

言葉が、出てこなかった。ただ、頬が熱くなって、私は思わず、目を伏せた。

その夜、三人で、村長の家の囲炉裏を囲んだ。

ロナンは、アルヴィス様の隣に、最初はおずおずと、けれど次第に当たり前のように座るようになっていた。アルヴィス様が、不器用な手つきで、煮た梨を匙で潰してやると、ロナンは、それを一口食べて、ふにゃりと笑った。

「おじさま、これ、つくるの、へた」

「……む。そうか」

「でも、ミレイアのと、おなじ味がする」

その一言に、アルヴィス様が、ふっと、目元をやわらげた。屋敷では一度も見たことのない、心からくつろいだ表情だった。私は、その横顔を盗み見て、それから、慌てて自分の手元の帳面に視線を戻した。けれど、頁の数字は、なぜだか、ちっとも頭に入ってこなかった。

穏やかな夜だった。

けれど、その穏やかさが長くは続かないことを、私は、帳面の片隅で、すでに感じ取っていた。

雨が、止んでいた。梅雨が、思ったよりずっと早く明けようとしている。乾いた辺境に、容赦のない夏が来る。そして、横領で痩せ細った領の備蓄は、その夏を、とても越えられそうになかった。

――間に合うだろうか。

灯りの下で、私は、唇を引き結んだ。証を固める時間と、迫りくる渇いた夏。その二つが、いま、静かに競い始めていた。