作品タイトル不明
第五話 戻ってきた叔父
その人が村に現れたのは、私がまだ、あの手紙の返事を書きあぐねている最中のことだった。
離縁のことを、どう伝えればいいのか。便箋を前に幾晩も筆を止めたまま、結局、一字も書けずにいた。だから、村の辻に旅装の馬が止まり、その背から、見慣れた長身が降り立つのを見たとき、私は本気で、自分の目を疑った。戻りはひと月以上先になる――そう書いて寄越した、当のあの人が、土埃にまみれて、そこに立っていたのだ。
「……辺境伯様」
声が、わずかにかすれた。
アルヴィス様は、屋敷へ向かう道とは反対の、この村への辻を、迷いなく選んできていた。つまり、この人は、屋敷ではなく、最初から私とロナンを探して、ここへ来た。それが何を意味するのか、考えるより先に、胸が、どきりと鳴った。
「離縁のことは、聞いた」
近づいてきたアルヴィス様は、前置きもなく、低い声でそう言った。疲れの滲んだ顔だった。中央から、ほとんど休まずに馬を駆ってきたのだろう。
「君からの知らせを、待っていたわけではない。風の便りで聞いて――それで、いてもたってもいられなくなった。調停は、途中で人に任せてきた」
私は、言葉を失った。あの夜、手紙を胸に当てて、もし離縁を伝えれば、この人は何もかも放り出して戻ってくる気がする、と思った。その予感が、こんな形で、そのまま現実になっている。
「お役目を、放り出してこられたのですか」と、私はようやく、それだけを口にした。
「ロナンと、君のことだ」と、アルヴィス様は、当たり前のように答えた。「役目より、後回しにできるはずがない」
その「君のことだ」の一言が、不意打ちのように、胸の奥へ刺さった。
ロナンは、私の後ろで、小さく身を固くしていた。
叔父であるはずのこの人を、子どもはまだ、警戒している。屋敷で暮らしていた頃、アルヴィス様はいつも忙しなく出入りするばかりで、ロナンとまともに過ごした時間など、ほとんどなかったのだ。子どもにとっては、叔父というより、たまに現れる、得体の知れない大人に近かったのだろう。
アルヴィス様は、それを見て取ると、無理に近づこうとはしなかった。代わりに、その場に片膝をついて、子どもと目の高さを合わせ、ゆっくりと言った。
「ロナン。よく、眠れているか」
その問いに、私は、はっと息を呑んだ。手紙の末尾にあった、あの一行と、同じ言葉だったから。
ロナンは、すぐには答えなかった。けれど、得体の知れない大人が、いきなり頭ごなしに何かを命じるのではなく、ただ自分の眠りを案じている――その意外さに、子どもの強張りが、ほんの少しだけ、ゆるんだのがわかった。
その晩、ロナンを寝かしつけてから、私はアルヴィス様と、村長の家の囲炉裏端で、向かい合った。
アルヴィス様は、懐から、一枚の紙を取り出した。私に突きつけられた、あの離縁状の、控えだった。
「これを、屋敷で見つけた――いや、君を探す前に、立ち寄った役所で写しを検めた」と、彼は静かに言った。「石女ゆえ、家格不足ゆえ、と書いてある。だが、おかしい。世継ぎのことだけが理由なら、なぜ、私の留守を狙う必要がある。私がいる前で、堂々と切り出せばいい話だ」
彼は、その紙を、囲炉裏の灯りにかざした。
「オデッタ叔母上は、君を『役立たずの石女』だと言ったそうだな。だが、この三年、領の台所を実際に回していたのが誰かを、私は知っている。徴税の段取りも、備蓄の割り当ても、君がいなければ、何ひとつ回らなかった。役立たずの者を、なぜ、わざわざ留守を狙ってまで、急いで追い出す。――答えは、ひとつだ。君が、邪魔だったからだ。帳簿を読める、目障りな証人として」
一つひとつ、事実で、相手の言い分の嘘を剥いでいく。その静かな語り口に、私は、内心で舌を巻いた。この人は、ただ感情で戻ってきたのではない。ちゃんと、検めるべきものを検めた上で、ここに座っている。
「辺境伯様は」と、私は、おそるおそる尋ねた。「私を、妻に戻すために、お戻りになったのですか」
もし、そうだと言われたら――たぶん、私は、素直に頷けない。離縁を撤回して、何ごともなかったかのように屋敷へ戻る。それは、横領をうやむやにし、この子の財を削った者たちを、見逃すことにもなりかねないからだ。
けれど、アルヴィス様は、首を横に振った。
「いや」と、彼ははっきりと言った。「私が勝手に離縁を撤回して、君を屋敷へ連れ戻すことは、しない。それでは、力で君の立場をねじ伏せるのと、同じだ。叔母上たちがしたことと、何も変わらない」
予想と違う答えに、私は、思わず顔を上げた。
「私が聞きたいのは、私の都合ではない。――ロナンを、これから君がどう育てたいのか。そして、君自身が、これからどうしたいのか。それを、君の口から、聞きたい」
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
誰かに、私自身がどうしたいのかを問われたのは、いつ以来だろう。役目を果たすことだけを求められ、果たせなければ消える――そういう場所で、私は三年を過ごしてきた。「お前はどうしたいのか」。その当たり前の問いが、こんなにも、胸を揺さぶるとは思わなかった。
「……私は」と、私は、声が震えないように、ゆっくりと言った。「ロナン様を、あの屋敷のような、息を殺さねば生きられない場所には、戻したくありません。あの子が、自分の好きなものを好きと言えて、嫌なことを嫌だと言える。そんな場所で、育ててやりたい」
「……そうか」
「それから――横領のことを、うやむやにはしたくありません。減らされた配給に泣いたのは、ザイデ村のような、立場の弱い人たちです。あの人たちの暮らしを削って肥えた者を、見逃すつもりは、ありません」
言い終えてから、出過ぎただろうかと、一瞬、不安になった。けれど、アルヴィス様は、その私の言葉を、まるで待っていたかのように、深く頷いた。
「わかった。なら、私のすべきことも、決まった」と、彼は言った。「君を妻の座に押し戻すのではなく――叔母上たちの横領と、傀儡を立てようとする企てを、宗主家の正式な裁定の場で、正す。そのために、私は動く。君が積んでいる証を、私に貸してくれるか」
救われるのではなく、並んで戦うことを、この人は申し出ている。その違いが、私には、何よりありがたかった。
二人で、夜更けまで、記録を突き合わせた。
私が三年分の帳面を広げ、アルヴィス様が屋敷から持ち出した出納帳を開く。膨れた雑費、減った配給、合わない日付。灯りの下で頭を寄せ合い、数字を一つひとつ照らしていくうちに、私は、ふと、おかしなことに気づいた。この人と、こんなに長く言葉を交わしたのは、嫁いで三年、初めてのことだった。
「辺境伯様」と、私は、手を止めて言った。「ひとつ、お尋ねしても」
「なんだ」
「ロナン様の養育記録に、私の字でない走り書きが、ありました。『梨を煮ると食べる』『夜は灯りをひとつ残す』――あれは」
アルヴィス様の、ペンを持つ手が、止まった。耳のあたりが、灯りのせいだけではなく、わずかに赤らんだのが見えた。
「……読んでいた」と、彼は、ばつが悪そうに目を逸らした。「屋敷にいる夜は、少なかった。だが、いる夜には、君のあの記録を、読ませてもらっていた。ロナンが、何を食べ、どんな夜を過ごしているのか。私が直接、そばにいてやれない分――せめて、知っておきたかった」
その不器用な告白に、私は、しばらく言葉が出なかった。
冷たい人だと、ずっと思い込もうとしてきた。期待しなければ、裏切られないから。けれど、この人は、ただ言葉が少なかっただけで、その少ない夜に、誰にも言わず、子どもの好物を書き足していた。私の壁の、いちばん薄いところに、また、するりと入ってくる。
「……ずるい、お方ですね」と、私は、つい、本音をこぼしてしまった。
「そうか」と、アルヴィス様は、困ったように、けれど少しだけ嬉しそうに、笑った。屋敷では一度も見たことのない、その不器用な笑みに、私の胸は、また勝手に、どきりと鳴った。
「ミレイア。……えっと、おじさま」
ふいに、戸口から、小さな声がした。
眠れなかったのだろう、寝間着のロナンが、こちらを覗いていた。子どもは、おずおずと近づいてきて、私とアルヴィス様を、交互に見上げると、消え入りそうな声で、もう一度言った。
「おじさまも……ぼくと、ミレイアと、いっしょに、いてくれる?」
それは、ロナンが、この叔父に向けて発した、初めての、自分からの言葉だった。
アルヴィス様は、一瞬、ひどく驚いた顔をして、それから、ぐっと何かをこらえるように、口元を引き結んだ。
「ああ」と、彼は、かすれた声で答えた。「いる。約束する」
その夜、私たちは、ひとつの灯りを囲んで、長いこと、座っていた。
――けれど、その温かな夜の裏側で、屋敷では別の企てが動き出していたことを、このときの私たちは、まだ知らなかった。離縁を既成事実にしようと焦るオデッタ様が、新たな跡継ぎを立てるべく、ひそかに人を動かしはじめていたことを。