作品タイトル不明
第四話 後見は離縁で消えない
翌朝、私はロナンをセドラさんの奥方に預けて、コルム殿とともに、村はずれの古い役所へ向かった。
宗主家がこの地に置いている、後見と相続を扱う出先の役所だ。普段は年に数えるほどしか使われない、埃っぽい板張りの建物だが、今日は、私の立場のすべてが懸かっている場所だった。馬車の中で、私は何度も懐の指名状の写しに触れた。角の擦り切れたこの一枚が、本当に私とあの子を守ってくれるのか――確かめるまでは、どうしても落ち着かなかった。
役所の老吏は、私の差し出した写しと、宗主家の台帳の控えを、灯りの下でゆっくりと照らし合わせた。
「……間違いない」と、老吏はやがて、しわがれた声で言った。「前辺境伯どのは、亡くなる前に、確かにこのケラー殿を、ロナン様の後見人と定めておられる。原本は、宗主家の本役所に納められておる」
「離縁されても、それは、変わらないのでしょうか」
私が問うと、老吏は、白い眉を少し持ち上げて、当然のことのように頷いた。
「後見と、婚姻は、別の縄じゃよ。夫婦の縁を切ったからといって、後見の縁まで切れるわけではない。離縁は、辺境伯どのとあんたの間の話。後見は、亡き前当主とあんたの間で結ばれた、別の約束。――一方をほどいても、もう一方は、ほどけぬ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、ずっと張りつめていたものが、ようやく、ふっとほどけた。
私は、ロナンを失わずに済む。たとえ妻でなくなっても、あの子の後見人であり続けられる。それは、昨夜まで、心のどこかでまだ怯えていた一点だった。屋敷を出るとき強気に言い放った言葉が、ただの虚勢ではなかったのだと、初めて、確かな後ろ盾を得た気がした。
けれど、安堵に浸る間もなく、老吏は、もう一つ、重い事実を口にした。
「ただしな、ケラー殿。後見人がついておる以上、その子の財――つまり、ロナン様が継ぐべきヴァルダ領の身上を、後見人の同意なしに動かすことは、本来、許されぬ。領費も、備蓄も、土地から上がる実入りも、すべて、跡継ぎが成人するまでは、後見人の判があって初めて、正しく動く」
「……それは」
私は、思わず身を乗り出した。
「では、この一年、屋敷が後見人の私に一度も諮らずに動かしてきた領費は、すべて――」
「筋を欠いておる」と、老吏は静かに断じた。「誰の許しも得ずに、他人が後見する子の財に手をつける。それは、ただの不始末では、済まぬ。横領じゃ」
横領。
その二文字が、役所の冷たい空気の中で、やけにくっきりと響いた。
私は、昨夜から胸にわだかまっていた違和感の正体を、ようやく、はっきりと名づけることができた。雑費が三倍に膨らみ、それでいて村々への配給は減っていた。出ていく金は増え、領民に届くものは減った。その差額は、誰かの懐に消えていたのだ。しかも、それは「誰か」の私財ではなく、後見人である私が守るべき、ロナンの財だった。
胸の奥から、静かな怒りがせり上がってきた。けれど私は、その怒りを、いつものように奥歯で噛みしめて呑み込んだ。怒鳴ったところで、何も覆らない。怒りは、声ではなく、記録で示すものだ。
コルム殿が、傍らで腕を組み、低く唸った。
「……話が、見えてきた」と、彼は呟いた。「離縁を、これほど急いだ理由だ。後見人どのが屋敷にいるかぎり、領費の支出には、いずれあなたの判が要る。帳簿を検める目も、すぐそばにある。だが、あなたを離縁して屋敷から追い出してしまえば――」
「金の流れを検める者が、いなくなる」と、私は後を引き取った。「そして、跡継ぎだけを手元に残せば、後見人を新たに立て替えることもできると、踏んでいたのでしょう。私さえいなくなれば、何もかも、思いのままになる、と」
言いながら、背筋が冷えた。オデッタ様たちにとって、私は、邪魔な妻である以前に、帳簿を読める目障りな証人だったのだ。石女だの家格だのは、その目障りな証人を、体よく追い払うための、ただの口実にすぎなかった。
役所からの帰り道、私は馬車の窓の外を、ぼんやりと眺めていた。
乾いた畑が、夏の手前の陽に焼かれて、白っぽく霞んでいる。この土地の実りは、ただでさえ細い。その細い実りから、本来は村を養うはずだった麦や塩が、こっそりと抜き取られ、誰かの私腹に流れていた。減らされた配給に、いちばん泣かされたのは、ザイデ村のような、立場の弱い村の人々だ。昨夜、温かい汁物を分けてくれた、あの囲炉裏端の顔が、次々と浮かんだ。
――許せない、と思った。
これは、もう、私個人が屋敷を追われた恨みの話ではない。あの人たちの、削られた暮らしの話だ。そう思い至ると、胸の奥の怒りは、不思議と、冷たく澄んでいった。
「後見人どの」
黙り込んだ私に、コルム殿が、ふと声をかけた。
「先に言っておくが、私は、あなたの味方をするためにここにいるのではない。私は宗主家の役人だ。見るのは、ただ、跡継ぎの相続が、正しく守られているかどうか。それだけだ」
「存じております」と、私は答えた。彼の言葉に、突き放されたとは感じなかった。むしろ、その線の引き方が、私には信じられた。情で動く者より、筋で動く者のほうが、こういうときは、よほど頼りになる。
「ですが――その筋が、たまたま、私とあの子を守る側に通っているのなら。私は、喜んで、その筋に乗らせていただきます」
コルム殿は、ふっと口の端をゆるめ、それ以上は何も言わなかった。
村に戻ると、ロナンが、家の戸口で、私の帰りをじっと待っていた。
私の姿を見つけると、子どもは、ぱっと駆け寄ってきて――けれど、あと数歩のところで、ふいに立ち止まった。駆け寄ってもいいのかどうか、まだ自分で決めかねている。そういう、ためらいの足取りだった。私は、しゃがんで、両腕を広げた。
「ただいま、ロナン」
その一言で、子どもの足のためらいが、ほどけた。ロナンは、最後の数歩を駆けて、私の腕の中に飛び込んできた。痩せた体の、思いがけない勢いに、私は少しよろけて、それから、笑った。久しぶりに、心から笑った気がした。
「……おかえり」
腕の中で、ロナンが、小さくそう言った。「おかえり」を言う側になれたことが、よほど嬉しかったのか、その声は、わずかに弾んでいた。
その夜、子どもを寝かしつけてから、私は灯りの下に、三年分の帳面をすべて並べた。
徴税の控え、備蓄の出し入れ、村ごとの井戸の深さ、商人の出入りの日付。そして、屋敷の名で動いた、あの膨れ上がった雑費。一つひとつの数字を、私は丹念に並べ替え、照らし合わせていった。消えた金には、必ず、出ていった跡がある。いつ、どこから、どれだけ。それを丹念に拾い集めれば、いずれ、金の流れた先が、おのずと浮かび上がってくるはずだった。
遠い中央にいるあの人は、まだ、何も知らない。
けれど、戻ってきたあの人に、私は、ただ泣きついたりはしない。きちんと数字で固めた証を、目の前に積んでみせる。それが、三年、この領の帳面を守ってきた、私なりの戦い方だった。
灯りの芯を、少しだけ長くした。長い夜に、なりそうだった。