作品タイトル不明
第三話 跡継ぎはどこにいる
査察の使者を待つ三日のあいだ、私はロナンに字を教えることにした。
囲炉裏端に古い板きれと炭を持ち出して、自分の名前から書かせてみると、子どもははじめ、炭を握る手をひどく強張らせていた。間違えたら叱られる、と思っているのだ。屋敷では、何をしても誰かの不機嫌の種になった子だから、無理もない。だから私は、線が一本ゆがむたびに、「いいわね、その払いがとてもいい」と、できるだけ大げさに褒めた。最初は怪訝そうにしていたロナンも、三日目には、自分から「これで、あってる?」と板を差し出してくるようになって、その小さな変化が、私にはなにより嬉しかった。
子どもに字を教える合間に、私はもう一方の手で、村の帳面を直していた。ザイデ村の差配の控えは、長く屋敷の代官に任せきりだったせいで、麦の出庫量も井戸の補修費も、あちこちで辻褄が合わなくなっている。一行ずつ照らし合わせ、欠けた数字を埋め、合わない箇所には小さく印をつけていく。手を動かしていると、心が静まった。明日からどうなるかわからない身の上でも、目の前の数字だけは、嘘をつかない。
査察の一行がザイデ村に着いたのは、よく晴れた昼下がりのことだった。
先頭に立っていたのは、まだ若い、けれど隙のない目をした男だった。宗主家から遣わされた相続監察官、コルム殿。彼は村の辻でいったん馬を下りると、迎えに出た私と、その後ろに半ば隠れたロナンを見て、はっきりと眉を寄せた。
「これは……異なことだ」と、彼は低く呟いた。「正統な跡継ぎたるロナン様と、その後見人どのが、なぜ辺境伯の屋敷ではなく、こんな村に?」
もっともな疑問だった。私は隠さず、ありのままを話した。夫の留守を狙って離縁状が突きつけられたこと、けれど後見は婚姻とは別であり、私が指名状に従ってロナンを伴ってきたこと。
コルム殿は、私の話を最後まで遮らずに聞いた。聞き終えてから、彼は屋敷から同行してきたもう一人――オデッタ様が差し向けた代理人へ、ゆっくりと視線を移した。
その代理人は、仕立てのよい上着を着た、いかにも如才なさそうな中年の男だった。けれど、コルム殿の最初の問いで、その如才なさは、もろくも崩れた。
「では、屋敷側にうかがおう。この一年、ヴァルダ領の備蓄麦の出庫は、どの村に、どれだけ配られた?」
「は……それは、その、帳簿を確かめませぬと」
「では冬越しの塩の備えは。今年の徴税は、どの村から、いつ取り立てる手筈になっている」
「……帳簿を、確かめませぬと」
同じ答えを二度繰り返した代理人の額に、汗が滲んだ。査察官の前で「確かめねばわからぬ」と言うことが、どれほど致命的か――おそらく本人がいちばん、よくわかっていた。領を預かる側の人間が、領の数字を一つも諳んじられない。それは、その者が実務を何ひとつ担っていない証に、ほかならなかった。
「……恐れながら」
私は、見かねて口を開いた。出しゃばるつもりはなかったけれど、村の者が固唾を呑んで見守るこの場で、いつまでも沈黙が続くのは、かえって酷だった。
「備蓄麦の出庫は、昨年、北の三村へ偏って配られています。本来、人口の比からすればザイデ村にもっと回るべきところが、半分ほどに減らされておりました。冬越しの塩は、例年なら晩秋に隣領の市で買い付けますが、今年はまだ手配がついておりません。徴税は、麦の刈り入れの済んだ村から順に、初秋に。――このザイデ村なら、土地が瘦せて刈り入れがひと月遅れますから、取り立ても、ひと月遅らせるのが筋です」
言い終えてから、しまった、と思った。つい、口が滑らかに動いてしまった。三年、毎日触れてきた数字だから、考えるより先に言葉になる。けれど、いまの私は、もう領の妻ですらない。出過ぎた、と頬が熱くなった。
ところが、コルム殿は咎めるどころか、ふっと表情をゆるめ、それから、すっと背筋を正した。
「……後見人どの。今のは、すべて諳んじておられるのか」
「申し訳ございません。差し出がましいことを」
「いや」と、彼は首を振った。「謝ることはない。むしろ、私は安堵している。正統な跡継ぎのそばに、領の数字を諳んじられる者がついている。それが後見人であるなら、宗主家として、これほど確かなことはない」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
誰かに、面と向かって「確かだ」と言われたのは、いつ以来だろう。屋敷では、私は「代官風情」で「役立たずの石女」で、いてもいなくても同じ存在だった。役に立っていなければ消えてしまう――そう怯えながら、ただ数字にしがみついてきた。その数字を、初めて、ひとりの人間が、正面から認めてくれた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。けれど私は、その温かさを、すぐに脇へ置いた。コルム殿は宗主家の役人で、私の味方というわけではない。彼が見ているのは、私個人ではなく、「跡継ぎを託すに足る後見人かどうか」という一点だ。それを取り違えてはいけない。彼の評価は、ありがたい追い風ではあっても、寄りかかる肩ではない――そう、自分に言い聞かせた。
ロナンが、私の袖を引いた。見上げてくる目には、知らない大人への怯えと、それでも私を案じる色とが、半分ずつ滲んでいた。大人が大勢で難しい話をしていると、この子はきっと、また自分の居場所が脅かされるのだと身構えてしまう。私が、その小さな肩にそっと手を置いてやると、ロナンは少しだけ、安心したように息をついて、それから、ぽつりと言った。
「ミレイア。ぼく、ちゃんと、ここにいて、いい?」
胸の奥を、また小さく掴まれた。この子は、自分がこの場にいてもいいのかどうかさえ、いちいち確かめないと不安なのだ。
「いいに決まっているでしょう」と、私はしゃがんで、その目をまっすぐ見て言った。「あなたがいるから、私はここに立っていられるの。だから、どこにも行かないで、私のそばにいてちょうだい」
ロナンの頬が、ほんのりと赤くなった。怒られると思って身構えていた子が、逆に頼られて、どう受け止めていいかわからない、という顔だった。それでも、握り返してくる手は、さっきよりも少しだけ強かった。
その一部始終を、コルム殿は静かに見ていた。
「……失礼を承知でうかがうが」と、彼はわずかに声を落とした。「ロナン様は、後見人どのに、ずいぶんと懐いておられる」
「三年、そばにおりましたので」
「屋敷では、誰がこの方の世話を?」
「……私です」と、私は答えた。それ以上は、言わなかった。屋敷の大人たちが、この子にどんな冷たい目を向けてきたかを、いま並べ立てたところで、それこそ「腹いせ」になる。証も伴わずに人を貶めることは、したくなかった。
けれど、コルム殿は、私の沈黙の意味を、正しく汲み取ったようだった。
彼は、屋敷から持参したという領の出納帳の写しを取り出すと、しばらく頁を繰り、それから、ふと指を止めた。
「……後見人どの。一つ、教えてほしい。この一年、屋敷の名で動いている『雑費』の額が、その前の年の、ざっと三倍に膨れている。これは、何に使われたものか、見当がつくか」
私は、その頁を覗き込んだ。並んだ数字を目で追ううちに、背筋が、ひやりとした。三倍に膨れた雑費。けれど、村々に配られた麦も塩も、むしろ減っている。出ていった金は増え、領民に届いたものは減った。その差額は、いったいどこへ消えたのか。
――誰の許可で、その金は動いたのだろう。
後見人である私は、ただの一度も、その支出に判を押した覚えがなかった。
「……すぐには、お答えできません」と、私は慎重に言った。「ただ、お調べになる値打ちは、十分にあるかと存じます。私の手元の記録と、この出納帳を突き合わせれば、いずれ、はっきりすることもございましょう」
コルム殿は、しばらく私を見つめ、それから深く頷いた。
「いいだろう。私はしばらく、この村に留まる。後見の正当性と――領の金の流れ、その両方を、確かめさせてもらう」
彼が去ったあと、私はひとり、出納帳の数字を頭の中で転がし続けた。胸の奥で、小さな違和感が、はっきりとした形を取りはじめていた。
その晩、ロナンが眠ったあと、私は灯りの下で、自分の帳面をそっと開いた。三年分の、誰にも見せたことのない記録。そのどこかに、消えた金の行き先が、きっと書き残されているはずだった。