作品タイトル不明
5話 さよならの言い方
朝の空気は、やけに澄んでいた。
こんな日に限って、どうしてこんなにも穏やかなのだろう——と、アリステラは思う。
(今日で、最後)
明日にはここを立つ。
胸の奥は、不思議なくらい静かだった。
(泣かない)
(ちゃんと笑って終わる)
そう、心に決める。
◇
「遅すぎ」
いつもの場所で、いつもの声。
レオは腕を組んで、少しだけ不機嫌そうに立っていた。
「待たせたわね」
軽く肩をすくめて応じる。
「ちょっと準備に時間かかって」
「毎回それ言ってる気がするな」
「女の子はそういうものなの!」
いつも通りのやり取り。
それだけで、胸が少しだけ軽くなる。
(よかった。ちゃんと、いつも通りだ)
剣を交える。
軽く、速く、互いの呼吸を確かめるように。
「遅い!」
「そっちが速すぎるの!」
「言い訳だな」
乾いた音が、朝の空気に響く。
汗がにじみ、息がわずかに上がる。
それでも——楽しいと思ってしまう。
(ああ、もう最後なのに)
木陰に腰を下ろす。
風が通り抜けて、火照った身体を冷やしていく。
「なあ」
レオが、いつもの調子で口を開く。
「明日、部隊が出発するんだ。その前に来るか?」
何気ない問い、何も知らない声。
(明日…)
言葉が、喉の奥でひっかかる。
「どうしようかな」
少しだけ視線を逸らして答える。
「来いよ」
短く、当たり前みたいに言う。
「お願い?」
「命令」
即答に、思わず笑ってしまう。
「え!?昨日とは逆じゃない!!横暴すぎよ!」
「いいだろ、別に」
そう言って笑う顔が――どうしようもなく好きで。
胸が、ぎゅっと痛む。
立ち上がって、歩き出す。
並ぶ距離は、いつもと同じ。
少しだけ近い。
手を伸ばせば、触れられる距離。
(もう少しだけ)
(本当に、あと少しだけこのままで)
(いや…言わなくちゃ)
何度も繰り返す。
「……ねえ、レオ」
ふと、足を止める。
「ん?」
振り返る。
いつも通りの、何も知らない顔。
(今だ)
息を吸う。
「私——」
その瞬間。
「リナ!」
別の声が割り込んだ。
騎士たちが手を振る。
「さっきの動き、良かったぞ!」
「ああ、見てた見てた。」
「……そう?ありがとう」
軽く返しながら、視線がレオへ向く。
——笑っていない。
ほんのわずかに、眉が寄っている。
「……お前」
低い声。
「そういうの、慣れてんのか」
「そういうのって何よ?」
思わず言い返す。
「褒められただけでしょ」
「……いや」
レオは、少しだけ視線を逸らした。
「悪い」
短く、それだけ。
それ以上は何も言わない。
(……何、それ)
胸が、わずかにざわつく。
けれど
(今じゃない)
(ちゃんと、二人の時に)
そう思って、言葉を飲み込んだ。
◇
夕暮れの空が、ゆっくりと色を変えていく。
人もまばらになった道を、並んで歩く。
残された時間はあとわずかになった。
今度こそ。
「……ねえ、レオ」
もう一度、呼ぶ。
今度は、逃げない。
(言うんだ、ちゃんと)
レオが、少しだけ近づく。
「なんだよ」
思っていたより優しい声。
距離が、ほんの少し縮まる。
(ああ、もう)
(ずるい)
視線を上げる。
目が合う——言えない。
「……なんでもない」
小さく、首を振った。
どうしても、言えない。
胸の奥で、焦りが膨らむ。
「なんだよそれ」
レオは軽く笑い先を歩く。
(だめだ)
(このままじゃ、何も言えないまま終わる)
「……レオ」
もう一度、振り返る。
「ん?なんだよさっきから?」
その顔を見た瞬間——迷いが、消えた。
「私……結婚するの」
静かな声だった。
自分でも驚くほど、あっさりと。
空気が、止まる。
レオの表情が消える。
「……は?」
「ここ、離れるの」
続ける。
止まったら、もう言えない。
「だから——今日で最後なの」
息を吐く。
「会えるの」
長い沈黙が落ちる。
レオは、何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
(お願い……何か言って)
「……そうか」
短く、それだけ。
「……相手、どんなやつだ」
ぽつり、と視線はそらして。
「いい人よ」
曖昧に答える。
「……そうか」
同じ言葉、でも、さっきより重い。
レオが真っ直ぐにこちらを見る
「幸せになれよ」
いつもどおりの、優しい声だった。
それが、どうしようもなく苦しい。
(なんで)
(そんなこと言うの…)
喉が、熱くなる。
グッと気持ちを押し込めた
「……ありがとう」
それしか言えない。
「お前、気強いからな」
少しだけ口元を歪める。
「相手に愛想尽かされんなよ」
「…なによ、それ」
なんとか絞り出した言葉。
(だめだ…泣くな)
(笑って…最後なんだから)
「…じゃあな」
それだけ。
それ以上は何もない。
けれど——はっきりと、線が引かれた。
(ああ…)
(この人は、ちゃんとしてる)
苦しい。
どうしようもなく苦しい。
レオが背を向ける。
いつものように、当たり前のように。
(これで終わり)
「……レオ!」
思わず呼び止める。
振り返る。
「ん?」
その仕草に、泣き崩れそうになる。
「……気をつけて」
それしか、言えなかった。
レオは少しだけ目を細める。
「ああ」
短く返す。
――そのまま歩き出しかけて、
ふと、足を止めた。
「……もし」
振り返らないまま。
「ほんとにやばい時は」
一瞬、言葉を探すような間。
「オレの名前、呼べよ」
静かに、続ける。
「必ず、助けに行く」
風が、二人の間をすり抜ける。
アリステラは、息を呑む。
(……ずるい)
そんなこと、言われたら。
忘れられるわけがない。
「……うん」
小さく、答える。
それ以上は、もう言えない。
レオはそのまま、歩いていく。
距離が、少しずつ開いていく。
(これで終わり)
それでも。
胸の奥に、ひとつだけ残る。
(……呼べば、来てくれるんだよね)
そんな約束に意味なんてないのに。
夕焼けが、長く影を引いていた。
まるで、その時間を引き延ばすみたいに。