作品タイトル不明
26話 黒く蝕ばむ
ルシエルドは静かに立ち上がる。
そして、迷いなくアリステラへ手を差し出した。
「来い」
アリステラはその手を掴む。
強く引き上げられた身体が、彼の隣へ並んだ。
立ち上がり一歩踏み出した瞬間、長いトレーンが瓦礫に引っかかった。
「……邪魔ね」
土と血で汚れた純白の裾。
このままでは、まともに動けない。
アリステラはドレスの裾を掴む。
だが、ふと動きが止まった。
「……切ってもいい?」
こんな状況なのに。
自分でも、おかしくなるほど間の抜けた問いだった。
ルシエルドは一瞬だけ目を瞬かせ——
小さく笑った。
「そんなもん、いくらでも作り直してやる」
「お前に似合うやつ、何着でもな」
その言葉に、アリステラもふっと笑う。
布を裂く音が響いた。
純白のトレーンが、容赦なく切り捨てられる。
軽くなった足元。
もう、“守られるだけの花嫁”は終わりだ。
アリステラは破いた裾を払い、真っ直ぐ前を見据えた。
ルシエルドは地面に落ちていた仮面を拾い上げる。
アリステラは、その下に誰がいるのか知っている。
それでも彼は、何事もなかったかのように再び仮面を付けた。
「行くぞ」
その声に、迷いはなかった。
◇
二人は、城内へ足を踏み入れた。
空気の異様さにアリステラは眉をひそめた。
——静かすぎる。
大方の避難は終わっているようだ。
しかし、爆発が起きたはずなのに、人の気配がない。
ただ遠くで、金属音と怒号だけが響いている。
「兵を、引き離された……?」
アリステラの呟きに、ルシエルドは短く答える。
「主力は、別方向へ誘導されてる」
本来なら、王城中央を守るはずの兵がいない。
——空けられている。
二人のために。
長い回廊を足早に進むたび、靴音だけが不気味に響いた。
◇
重厚な扉を抜けた先。
視界が、一気に開け日差しが差し込む。
そこは、王城中央式典広場。
歴代の王が民へ姿を見せ、勝利宣言や戴冠式が行われる場所。
本来なら、今日アリステラが花嫁として立つはずだった。
——だが。
広場で待ち構えていたのは、祝福ではなく黒い蝕。
「ようこそ、第三王子」
真正面、見上げた先。
バルコニーの王族席に、隣国の使節服を纏った男が悠然と立っていた。
「せっかくの婚礼だ。隣国の使節として、祝福に来てやったぞ」
ルシエルドの神経を逆撫でするその声
――かつて、最も信頼していた護衛騎士
焼き付いた裏切りの記憶が蘇る。
「お前か」
ルシエルドは、剣を強く握る。
「力の無い王子。利用価値がないと思っていたが、まさかここで、我々の役に立つとはな」
男は冷淡に嗤う。
「王妃を動かすのには、ちょうどいい標的になってくれたよ。」
男の背後で、鉄籠の火が赤々と揺れている。
「礼だ。聖なる炎で、その偽りの血ごと浄化してやる」
その瞬間を待っていたかのように、男は燃え盛る火種を掴み取ると、躊躇なく広場へ投げ放つ。
広場の端で火が走った。
「……っ」
アリステラが目を見開く。
炎は、石畳に沿うように一直線に駆け抜ける。
まるで、地を這う蛇のように。
「油……!」
ルシエルドが低く吐き捨てた。
あらかじめ撒かれていた可燃油へ、炎が引火している。
一瞬で、熱気が広場を呑み込んだ。
炎が円状に走る。
逃げ場を消す。
揺れる炎。
焦げた臭い。
赤く染まる視界。
——そして。
幼い日の記憶が蘇る。
燃え上がる部屋。
悲鳴。
血。
自分へ向けられた刃。
「っ……」
ルシエルドの動きがわずかに止まった事に、アリステラは気づく。
怒りの奥にある、ごく僅かな“恐怖”に。
——だから。
アリステラは、そっとその手へ触れた。
強く握り、大丈夫だと伝える。
声にはしない。
けれど、その温度だけで十分だった。
一人じゃない。
もう、あの日とは違う。
ルシエルドは、ゆっくりと顔を上げた。
そして——
その瞳に、静かな熱が戻る。
「……行くぞ、リナ」
二人同時に地を蹴る。
炎を裂き、ルシエルドは一気にバルコニーへ踏み込む。
アリステラは、燃え広がる広場の縁を回り込み、その上へと視線を上げた。
——捉えた。
ルシエルドが迫る。
一気に間合いを潰す
だが。
「遅い」
火が弾け、炎が壁のように立ち上がる。
ルシエルドの剣筋を、先読みしたように弾く男。
「お前では勝てない。弱すぎる」
幼い頃、訓練の合間に植え付けられた言葉。
一瞬の怯み。
間合いを外され、逆に押される。
「お前はあの時、燃え尽きるべきだった!」
男の剣が振り落とされる。
「レオ!」
低く、短く。
ルシエルドの意識が引き戻される。
「左、半歩」
それだけ。
説明はいらない。
身体が動く。
男の刃が、紙一重で空を切った。
そして――。