作品タイトル不明
2話 終わらせる為に
「ご無沙汰しております、アリステラ」
低く、抑えた声。
目の前に立つ男は、黒の外套に身を包み、無機質な仮面で顔半分を隠している。
その仮面の下は、誰も知らない。
国の第三王子にして騎士団長——ルシエルド。
有能であるがゆえに周囲に持ち上げられ、
同時に、側妃の子という出自ゆえに王妃の警戒も強い。
隣国との緊張が高まる中、
その均衡を保つために急遽まとめられた縁談だった。
アリステラは淑やかに辺境伯令嬢の礼をとった。
「遠路よりのお越し、恐縮にございます。殿下」
視線は合わせない。
声も、感情も、必要以上には乗せない。
用意された言葉だけを、なぞるように交わす。
王都での、婚姻の儀。
そのために遠路より、アリステラを迎えに来た。
(この人と、結婚する)
胸の奥で、静かに言葉が落ちた。
華奢な身体に、清楚で上品な佇まい。
淡い金の髪は光を含み、白い肌はどこか儚げで。
——病弱な令嬢。
そう見えるように整えられた姿。
ヴァルディス辺境伯令嬢。
それが、アリステラだ。
ほんの一瞬だけ、視線が交差した気がした。
だが、それ以上は何もない。
「長旅でお疲れでしょう」
アリステラは、淡々と続ける。
「晩餐の席で、改めてご挨拶を」
「ああ」
短い応答。
それで、終わり。
この結婚に、心を交わす時間などなかった。
二人は婚約者というより、まだ他人同士のような距離のまま。
「それでは、失礼いたします。」
「失礼する」
背を向ける。
扉が閉まる。
——静寂が訪れる。
「……アンナ」
数秒の沈黙のあと、アリステラはぽつりと呼んだ。
「はい、お嬢様」
「急ぐわ」
顔を上げたその瞳には、もう先ほどまでの令嬢の気配はなく、少し駆け足で部屋に戻る。
鏡の前に座り、髪をまとめ、カツラをかぶる。
赤茶色のポニーテール。
アンナに、細かなそばかすを描いてもらい、
肌のトーンを小麦色にする。
ドレスの裾をたくし上げ、動きやすい服に替える。
儚げな令嬢は姿を消し、
代わりに現れたのは、陽に焼けた快活な少女。
(これで、リナになる)
鏡の中の自分を見て、ふと手が止まる。
(違う)
(これが——最後のリナになる)
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「お嬢様」
背後から、アンナが静かに声をかける。
「……これで、終わりにされるのですね」
「そうよ」
きっぱりと答える。
迷いはない——はずだった。
「だから」
鏡越しに、アンナを見る。
「終わらせに行くの」
息を吸う。
「……ちゃんと、さよならを言う為に」
アンナは何も言わず、ただ小さく頭を下げた。
廊下を走る。
軽くなった足取りが、皮肉みたいに心地いい。
(終わらせるために行くのに)
(早く)
(早く、会いたい)
終わりにしなければと分かっていても、会える嬉しさがそれに勝ってしまう。
アリステラは、早足で駆けていく。
訓練場の手前まで来ると、金属のぶつかる音が耳に届いた。
騎士たちの声。
剣戟の響き。
いつも通りの光景の中に、一人を探す。
足は止まらない。
人の間を縫うように視線を走らせる。
(どこにいるの)
見慣れた立ち方。
あの癖のある重心。
胸が早鐘を打つ。
視界の端に、見覚えのある背中が映る。
一瞬で分かる。
見間違えるはずがない。
(いた)
喉が、かすかに震える。
「……レオ」