軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話 交わらない廊下

父の用事は、王都の東区役所に届ける領地の納税報告書だった。

「届けてきてくれるか。帳簿の写しも一緒に」

朝食の席で、父は茶を啜りながら言った。使いを出せば済む話を、わざわざリーゼルに頼んでいる。それが何を意味するのか、リーゼルにはわかっていた。

——外に出ろ、ということだ。

婚約辞退から八日。屋敷と庭の往復しかしていないリーゼルに、父はそれ以上のことを言葉にはしない。ただ用事をひとつ渡す。断る理由はなかった。外に出ろ、と言ってくれる人がいるうちに、出た方がいい。

「はい。行ってまいります」

マルタが外出着をいつもの手際で用意してくれた。以前のような華やかな装いではない。伯爵令嬢としては質素な、深い緑の外套と飾り気のない灰色の帽子。手袋は——出さなかった。リーゼルも求めなかった。

東区役所は王宮から南に四つ辻を下った先にある灰色の石造りの建物で、貴族が足を運ぶ場所ではない。リーゼルが自分で来たのは初めてのことだった。

受付の役人が一瞬目を丸くし、すぐに居住まいを正す。「エルトハイム伯爵家」の名に反応したのだろう。書類を預け、受領印を待つあいだ、リーゼルは窓際の長椅子に腰を下ろした。

隣の長椅子では老人が居眠りをしている。向かいの受付では商人が書類の不備を指摘されて頭を掻いている。貴族の社交場とは違う空気。ここにいる人たちは、肩書きではなく用事で来ている。

役所の空気は乾いている。インクと古紙の匂い。誰かの靴底が廊下の石を踏む音が、規則正しく遠ざかる。王宮の大広間とは何もかもが違う。天井の高さも、光の色も、人の歩き方も。ここでは誰もリーゼルの笑顔を確かめない。

それが、少し楽だった。膝の上に書類を置く。こうして誰にも見られず座っていられることが、今の自分には贅沢に感じられる。

受領印を受け取って玄関の広間に戻ったところで、足が止まった。

向かい側から歩いてくる男がいる。

紺色の上着。仕立ての良いものではない。襟元にほつれがあり、袖口がわずかに擦り切れている。近衛の正装ではなく、かといって騎士の日常着でもない——ただの、平服。

ヴォルフだった。

リーゼルの足がすくむ。

なぜここに。そう思ってから、考えれば当然だと気づく。近衛騎士も人間なのだ。役所に用事があることもある。

ヴォルフもリーゼルに気づいている。歩調が一瞬だけ乱れ、すぐに元に戻る。

——会釈だけして通り過ぎればいい。

そう思った。それが一番自然な振る舞いのはず。

けれど近づくにつれて、言葉の組み立て方がわからなくなっていく。

そのとき、横の通路から役人が二人、書類を抱えて歩いてきた。一人が声を落として何か囁き、もう一人がリーゼルの方をちらりと見る。

「——あの方が、殿下の元……」

聞こえた。聞こえてしまった。

リーゼルの足が止まる。胸の奥が、針で刺されたように痛む。笑顔を作ろうとしたが、間に合わない。

その瞬間、ヴォルフが動いた。

リーゼルとの距離を一歩で詰め、二人の役人のあいだに自分の体を割り込ませるようにして通路を塞ぐ。何も言わない。ただ立っている。背中が壁になる。役人たちの視線がリーゼルから外れ、ヴォルフの背中にぶつかって止まる。

私服なのに、この人の背中は近衛の正装のときと変わらない。壁のように広く、硬い。あの夜会で外套を背負っていた背中。三年間、リーゼルの後ろに立っていた背中。

「……失礼」

役人が小さく頭を下げて、脇を通り抜けていった。

ヴォルフは振り返らない。背中をリーゼルに向けたまま、数秒。それから、ゆっくりと向き直る。

何事もなかったかのような顔。けれど首筋がわずかに紅い。任務でもないのに体が勝手に動いたことを、この人自身が持て余しているように見えた。

二人の距離が縮まる。玄関の広間は天井が高く、足音がよく響いた。

「——お元気そう、で」

声が出た。社交辞令の冒頭。「お元気そうで何よりです」と続けるはずだった言葉が、途中で喉に引っかかる。

沈黙。

リーゼルの唇が動く。用意していた言葉ではなかった。

「……おそばに、いてくださったんですね」

声が震えた。

「ずっと」

過去形。終わったことの確認。三年間の護衛への、遅すぎる感謝。そのつもりで言ったはずだった。けれど声に出した瞬間、「おそばに」という言葉が胸の奥で予想もしない重さを持って、沈んでいく。

殿下に何百回と繰り返した「おそばにお仕えいたします」は、羽毛のように軽い音だった。なのに今、ヴォルフに向かって言った「おそばに」は、喉を通るときに角がある。

ヴォルフは何も答えない。

長い沈黙のあと、小さく頷く。それだけ。目がリーゼルの顔を見ている——いや、視線はもっと下に落ちている。手袋をつけていない、薬指に何もない素手を、一瞬だけ。

それから、ヴォルフはリーゼルの横を通り過ぎた。

革の匂いはしなかった。近衛の正装ではないから。すれ違ったのは、ただの男だった。

リーゼルは、その場に立ち尽くしている。

目の奥が熱い。何かがこみ上げてきている。それが何なのか、名前をつけられない。

泣きそうだ、と思った。

理由の見えない涙ほど始末に負えないものはない。

受領印を握りしめた右手だけが、確かな重さを持っていた。左手は空のまま、行き場なく体の横に下がっている。

玄関の扉を押して外に出た。秋の冷たい風が頬を叩く。目の奥の熱が、風に散らされるように薄れていく。

通りには馬車が一台停まっていて、御者が欠伸をしている。日常の、なんということのない午後の光景。リーゼルの内側で起きたことなど、この街の誰も知らない。

振り返らなかった。振り返れば何かが零れる気がして、足だけを前に動かした。

——角を曲がったあと、ヴォルフは立ち止まっている。

廊下に人影はない。役所の窓から差し込む午後の光が、石の床に四角い模様を落としている。どこかの部屋で書類を綴じる音がする。乾いた、事務的な音。

右手が壁を掴んでいた。指が石の継ぎ目に食い込んで、爪の先が白い。さっき、あの役人たちから彼女を遮ったときに動いた体。任務でもないのに。もう護衛ではないのに。

過去形で、言われた。

「いてくださったんですね」。——いてくださった。終わった場所からの、振り返り。

壁の石は冷たい。指の感覚がゆっくりと戻ってくる。

——ああ、もう終わったのだと、あのひとは思っている。