軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 要らないひと

荷造りを始めたのは、父に「考えさせてください」と言ってから四日後の朝のこと。

考えた。四日間、考え続けた。王都に残る理由を探して、書庫で本を開き、庭を歩き、窓から王宮の尖塔を眺め——見つからない。

理由がないのなら、帰るしかない。

マルタに「荷物をまとめます」と告げると、老侍女は一瞬だけ手を止め、それから「かしこまりました」と答える。声の調子はいつもと変わらない。表情も。変わらないことが、マルタの優しさなのだと、もう知っている。

朝、荷造りに取りかかる前に、もう一通の封書が届いた。

王家の紋章。今度は事務官ではなく、殿下の侍従長の署名がある。文面は丁寧だった。

「仮の婚約に関する一切の事情を、王家の許可なく第三者に口外しないこと」

念書への署名を求める書状。末尾に、「伯爵家の今後のご繁栄をお祈り申し上げます」と添えてある。

リーゼルは文机でペンを取り、署名した。手が震えなかったことを確認する。インクが乾くのを待つあいだ、封書を見つめていた。繁栄を祈っている、と書いてある。三年間を口封じしておいて、繁栄を祈る。王家の作法として、それが誠意なのだろう。紙の上の誠意。体温のない、紙の上だけの。

——怒るべきなのかもしれない。

けれど怒りの形がわからなかった。殿下は悪意で動いているわけではない。王家の事務として、当然の手続きを踏んでいるだけ。リーゼルの三年間は、王家にとっては手続きのひとつだったのだ。あの穏やかな「ご苦労だったね」と同じ温度で、この念書も作られている。

署名した念書を封筒に入れ、使いに渡すために玄関に持っていく途中、階段の踊り場で声が聞こえた。

「——お嬢様、お気の毒に。殿下に使い捨てにされたも同然でしょう」

使用人の一人だった。若い下女が、もう一人の下女に小声で囁いている。

リーゼルの足が止まった。踊り場の壁に背を預けて、聞こえないふりをする。

聞こえないふりは得意だ。三年間、そうしてきた。

「お黙りなさい」

低い声。マルタだった。

二人の下女が息を呑む気配。マルタの声は大きくない。けれど刃物のように鋭い。

「お嬢様のことを、あなたたちの噂で消費するのはおよしなさい。もう二度と」

静寂。下女たちが足早に去っていく音。マルタの足音はしない。踊り場の向こうに立ったまま、動いていないのだろう。

リーゼルは壁から背を離し、そのまま自室へ戻る。マルタの前は通らなかった。通れない。あの老侍女に今の顔を見られたくなかった。

手が小さく震えている。使い捨て。下女の言葉が耳に残っている。否定したいのに、否定する材料がどこにもない。

自室の衣装箪笥を開けると、三年間の痕跡がぎっしりと詰まっている。

夜会用のドレスが六着。殿下の名代として出席した茶会で贈られた銀の小匙。外交使節の晩餐でいただいた刺繍入りの手巾。押し花が、いつの間にか本の頁に挟まっている。

リーゼルはひとつずつ取り出し、机の上に並べていく。

どれも美しくて、手触りがあって、三年間の日々の記憶と結びついている。夜会で着たドレスの裾に、踏まれた跡がうっすら残っている。それさえも、自分の傷ではなく衣装の傷。

どれも、自分の持ち物ではない。

「仮の婚約者」の衣装を脱いだら、その下に自分自身のものが何もなかった。窓から午後の光が差し込んで、銀の小匙が光を弾いた。きれいで、中身のない光。

老侍女が黙って手伝っている。返却する品と処分する品とに仕分ける作業を、手際よく進めていく。リーゼルが迷うたびに、何も言わず待ってくれる。

仕分けが終わりに近づいた頃、老侍女が衣装箪笥の底から木箱をひとつ取り出した。

掌に収まるほどの大きさ。見覚えがある。

あの白い絹が入っていた箱。リーゼルが「もう要りません」と断ったあと、引き出しに仕舞われていたもの。

マルタは箱をリーゼルの前に差し出す。

「こちらは、お返しするものでも、捨てるものでもございません」

老侍女の声は穏やかで、けれどどこか芯がある。

「これはお嬢様のものでございます」

リーゼルは箱を見つめる。

薬指を隠すために着けていた絹の布。仮初めの日々の道具。それが「自分のもの」だと、マルタは言う。三年分の品々をすべて返却と処分に振り分けたあとで、これだけは「あなたのもの」だと。

手を伸ばしかけて、止めた。

指先が箱の縁に触れる直前で、宙に浮いたまま固まる。受け取ってしまえば、あの三年間の何かを肯定することになる。

けれど——引き受けて、どうする。その先に何がある。部屋の隅に、仕分け済みの品が二つの山に分かれている。返す山と、捨てる山。どちらもリーゼルの手を離れていく。箱だけが、どちらにも属さずに机の上にある。

「私は」

声が出た。口を開くつもりはなかったのに、喉の奥から言葉が勝手にのぼってくる。

「——誰のそばにも、要らない人間だったのかもしれません」

自分の声の平坦さに息を呑む。震えてはいない。むしろ静かすぎるほど凪いでいて、だからこそ底が深い。

殿下には要らなかった。社交界にも——肩書きを外した瞬間に封書は止まり、子爵夫人の手紙は素っ気ない見舞い。王家は念書を送ってきて、使用人は噂をする。

誰にとっても、あってもなくても変わらない。

マルタは反論しなかった。

「そんなことはございません」とも、「お嬢様は大切な方です」とも言わない。リーゼルが今一番聞きたくない種類の慰めを、老侍女は正確に避けている。

代わりに、そっとリーゼルの左手に自分の手を重ねた。

素手の上に、皺の深い、乾いた手。何も言わず、ただ触れている。否定でも肯定でもなく、ここにいる、ということだけを手のひらで伝えるように。

リーゼルは動けなかった。

その温度が、左手の甲から腕を伝って胸の奥まで届く。鼻の奥がつんとする。

窓の外で山査子の枝が風に揺れた。赤い実が二つ三つ、落ちる。

「……ありがとうございます」

小さく言った。何に対する礼なのか、自分でもうまく言えない。箱は机の上に置かれたまま、蓋は閉じている。受け取りもせず、突き返しもしない。宙ぶらりんのまま。

外はもう暮れかけている。窓の向こうの空が紫に染まり、山査子の枝が黒い影になっていく。

マルタの手は温かかった。

でもその温かさが、私がずっと感じていたはずの別の温もりを思い出させて——それが誰のものだったか、もう考えたくなかった。