作品タイトル不明
第3話 手袋のない朝
翌朝も、その翌朝も、マルタは手袋を持ってきた。
朝の支度を終えたリーゼルの前に、白い絹を両手に載せて立つ。三年間と変わらない所作。変わったのは、リーゼルが受け取る側の椅子に座っていないということ。
文机に向かい、何をするでもなく便箋を眺めている。宛名を書く相手のない便箋。インク壺の蓋は閉じたまま、もう三日開けていない。
「お嬢様」
マルタの声。
「……もう、要りません」
手袋に向けて言った。マルタの手に載った、あの白い絹。三年間、薬指を覆い続けてきた布。それを見ると指の腹に絹の感触がよみがえって、もう嵌まっていないはずの左手がむず痒くなる。
マルタは小さく頷き、手袋を引く。翌朝もまた持ってくる。リーゼルはまた首を振る。三日目に、マルタは持ってこなくなった。
化粧台の引き出しに白い絹が仕舞われるのを、リーゼルは横目で見ていた。閉じられた引き出し。あの中に、辞退願もかつて入っていたのだ。ひとつ出して、ひとつ仕舞う。入れ替わりのように。
婚約の辞退から五日が過ぎていた。
四日目の朝、王宮の紋章が押された封書が届いた。差出人の名はなく、王家の事務官の署名だけがある。中身は書類だった。
「婚約辞退に伴う返却品目録」。
一覧には番号が振られていた。夜会用の貸与ドレス六着。王家紋章入りの肩掛け一枚。式典用の扇子二本。園遊会で使用した銀食器の一式は返却不要と注記がある。回収の日取りまで指定されていた。来週の火曜日。使いの者が伺います、と。
三年間の全てが、番号と品名に還元されている。リーゼルの名前はどこにもない。「仮婚約者(解消済み)」とだけ記されている。
その事務的な正確さに、不思議と怒りは湧かなかった。これが正しいのだ。三年間の関係が終われば、残るのは返却品の目録。王家にとってはそれだけのこと。目録を机の上に置く。紙が乾いた音を立てた。
同じ日の午後、一通の手紙が届く。差出人はフライシュ子爵夫人。三年間、夜会のたびに言葉を交わしてきた相手。
封を切ると、短い文面だった。
「ご事情は存じております。お体にお気をつけて」
それだけ。三年間の付き合いが、この短い文に収まっている。名前は「リーゼル様」ではなく「エルトハイム嬢」。距離が戻っている。婚約者だった頃の距離ではなく、ただの伯爵令嬢に対する距離に。
手紙を畳み、引き出しに入れた。社交界とはそういう場所だった。人を見ているのではなく、肩書きを見ている。わかっていたこと。わかっていたはずのことが、子爵夫人の素っ気ない文面を思い出すたびに、小さな棘のように指先を刺す。
エルトハイム邸は王都の東区に建つ古い石造りの屋敷で、大きくはない。使用人もマルタを含めて五人。伯爵家としては質素なほうで、三年間ほとんど留守にしていたこの屋敷が、今は静かすぎた。
使用人たちは気を遣っている。廊下ですれ違うとき、以前よりも深く頭を下げ、以前よりも足音を殺す。婚約者の肩書きが外れたことは屋敷中に伝わっていて、誰もそのことに触れない。触れないという優しさが、かえって輪郭をはっきりさせる。
朝食をとり、庭を歩き、書庫の本を開き、読めずに閉じる。針が布に刺さったまま、窓の外をぼんやりと見つめる時間ばかりが伸びていく。
庭の隅に植わっている山査子の木が、赤い実をつけ始めていた。去年の秋にも実をつけていたはずだが、覚えていない。去年の秋、夜会と園遊会の合間に、庭の木の実を見る余裕はなかった。
今は見える。朝も昼も夕方も、嫌というほど。
父が書斎に呼んだのは、六日目の午後だった。
エルトハイム伯爵は白髪の多い痩せた男で、声が低い。書類仕事を好み、社交を好まない。三年前、リーゼルの仮婚約を持ちかけられたとき、一度だけ眉をひそめ、それきり何も言わなかった人だ。領地の税を帳消しにすると言われて、娘を差し出す以外の選択肢がなかった。そのことを、父は今も自分に許していないのかもしれない。
「座りなさい」
書斎の革張りの椅子を勧められ、リーゼルは向かい側に腰を下ろす。机の上には領地経営の帳簿が開いたまま。数字の並ぶ頁。父の几帳面な筆跡で、収支の脇に小さな注記が書き込まれている。
「王都に留まる理由があるなら、そうすればいい」
帳簿から顔を上げず、事実を述べるように言う。
「なければ——領地に戻るか」
リーゼルは答えなかった。答えを持っていない。
王都に残る理由。三年前にはあった。殿下の隣という定位置が、この街に留まる唯一の根拠。それが消えた今、エルトハイム領の旧い館に帰ることは何もおかしくない。
けれど「はい」とは言えなかった。理由はわからない。わからないことが、一番こたえた。
「少し、考えさせてください」
父は頷いて、帳簿に視線を戻す。
書斎を出るとき、背中にかけられた言葉は短い。
「急がなくていい」
その声がほんの少しだけ柔らかかったことを、リーゼルは聞き逃さなかった。
夜。自室の窓辺に立つ。
秋の夜気が頬を撫でる。昼間の温もりはもうどこにもなく、空気が薄く冷えている。
王都の街並みの向こうに、王宮の尖塔が見えた。灯りが点っている。以前なら知っていた。今夜は何の集まりで、誰が出席し、どの広間を使うか。
今の自分には、あの灯りが何を意味するのかわからない。
窓枠に左手を置いた。素手の指が、夜気に冷えた石に触れる。
ふと、思い出す。
夜会のたび、バルコニーに出ると背後に気配があった。振り向かなくてもわかる、静かな存在感。何も言わず、ただ外套をかけてくれた手。肩の上で一拍だけ止まった、あの指先。
あの気配が、もうない。
護衛任務が解かれたのは、婚約辞退と同時だっただろう。仮の婚約者を守る必要がなくなれば、護衛もまた不要になる。
三年間、ほとんど毎日同じ空間にいたのに、リーゼルはヴォルフの住まいを知らない。非番の日に何をしているのかも、好きな食べ物も、笑った顔も。名前と階級と、外套の重みと、あの匂い——それだけが、三年間で手に入れた全部だった。
それでよかったのだ。護衛と被護衛者。それ以上の何かである必要はなかった。
——なかった、はずだ。
左手を窓枠から離す。指先が白い。冷えている。手袋をしていない左手は、夜風に対して無防備で、守るものが何もない。
手袋が要らなくなったのではない。
隠したい左手ごと、私は誰の目にも映らなくなったのだ。