軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

06.執事長は見た、公爵邸の真の支配者を

ヘイリス公爵家の執事長であるセバスチャンは、長年この屋敷に仕えてきた。

だからこそ、断言できる。

かつて、この屋敷は「死地」だったと。

主であるジークフリート・フォン・ヘイリス公爵は、過剰な魔力による不眠症に苦しんでいた。

その神経は張り詰めた糸のように鋭敏で、わずかな物音すら許されない。

使用人が皿をカチャリと鳴らせば、部屋ごと氷漬けにされかけたことも一度や二度ではない。

屋敷の廊下を歩く際、使用人たちは呼吸音すら殺す「隠密歩行」を強いられてきた。

いつ機嫌を損ね、首が飛ぶか分からない。

ここは、絶対零度の暴君が支配する、恐怖の城だったのだ。

――そう、「かつて」は。

セバスチャンは、廊下の窓から差し込む暖かな陽光を見上げた。

「……平和だ」

信じられないことに、最近の屋敷は穏やかだった。

あのピリピリとした殺気は霧散し、使用人たちも笑顔を見せるようになっている。

原因は明白だ。

主であるジークフリートの変化である。

最近の閣下は、肌艶が異常に良い。

目の下の隈は消え、表情からは険しさが抜け落ちている。

それどころか、昨日は廊下ですれ違った際、鼻歌交じりに挨拶を返された。

メイドの一人があまりの衝撃に花瓶を落としたが、閣下は「怪我はないか?」と気遣う余裕すら見せたのだ。

「奇跡だ……」

「聖女様が現れたに違いない……」

使用人たちの間で、そんな噂が飛び交っている。

そして皆、その「聖女」の正体を察していた。

先日、閣下と「白い結婚」をしたはずの奥様、リリアナだ。

閣下は毎日、必要最低限の仕事をこなし、本宅に帰宅。

そして定時になると、リリアナ様の住む「離れ」へと猛ダッシュしていく。

そして翌朝まで帰ってこない。

離れの中で何が行われているのか。

どんな高度な魔術、あるいは献身的な愛が、あの暴君を骨抜きにしたのか。

……セバスチャンはずっと気になっていた。

そして今日。

ついにその「聖域」に足を踏み入れる機会が訪れた。

「……緊急の決裁書類です。こればかりは、今すぐサインを頂かねば」

セバスチャンは分厚い書類を抱え、緊張した面持ちで離れの前に立った。

本来なら近づくことすら憚られる場所だ。

邪魔をすれば、今度こそ氷像にされるかもしれない。

セバスチャンは喉の奥でごくりと唾を飲み込み、震える手でドアをノックした。

「……しつ、んんっ。失礼いたします、旦那様。緊急の案件にて参りました」

声が裏返りそうになるのを必死に堪える。

心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。

殺されるかもしれない。

そんな予感が脳裏をよぎる。

「入れ」

中から聞こえたのは、リリアナ様の声ではなく、ジークフリート様の声だった。

しかし、その声にはいつもの覇気がない。

どこか甘えたような、腑抜けた響きだ。

セバスチャンは恐る恐るドアを開けた。

「!」

足を踏み入れた瞬間、セバスチャンは目を見開いた。

そこは別世界だった。

気温は春のように暖かく、ほのかに甘い花の香りが漂っている。

外の騒音は一切遮断され、完全な静寂と平穏が支配していた。

だが、何よりセバスチャンを驚愕させたのは、その光景だ。

部屋の中央。

最高級の布地で作られたであろうフカフカのソファーには、リリアナが優雅に腰掛け、紅茶を啜りながら本を読んでいる。

そして、その足元。

毛足の長いラグの上に、我が主であるジークフリートが、腹這いになって寝転がっていた。

「……え?」

セバスチャンは我が目を疑った。

国最強の騎士団長が、床に。

まるで、飼い主に寄り添う大型犬のように。

「……リリー、ここが分からん。計算してくれ」

ジークフリートは床に書類を広げ、情けない声を上げた。

彼はリリアナのスカートの裾を握りしめ、上目遣いで妻を見上げている。

「自分でやってください」

リリアナは本から視線を上げずに、冷たく言い放つ。

その声には、夫への敬意など微塵もない。

あるのは、出来の悪いペットを躾ける飼い主の響きだ。

「……すまない」

「あといい加減その体勢やめてください。はっきり言ってきしょいです」

「やだ。ここが一番落ち着く」

ジークフリートはリリアナの足に頬を擦り付けた。

完全に甘えきっている。

あの冷徹無比な「氷の公爵」の姿はどこにもない。

そこにいるのは、妻という「精神安定剤」に依存しきった、ただの駄目な男だった。

「あ、セバスチャン。ご苦労さまです」

リリアナがセバスチャンに気づき、微笑んだ。

その瞬間、ジークフリートがバッと顔を上げ、セバスチャンを睨みつけた。

「……チッ。邪魔が入った」

一瞬で「氷の公爵」の殺気が戻る。

だが、リリアナが彼の頭をポンと軽く叩くと、その殺気は霧散した。

「こら。お客様に失礼でしょう。『おすわり』」

「……はい」

閣下が、縮こまった。

セバスチャンは戦慄した。

あの暴れ狂う魔力の化身を、この方は指先一つ、言葉一つで完全に制御している。

魔法ではない。

もっと根源的な、魂のレベルでの「支配」だ。

(聖女などという生温かいものではない……)

セバスチャンは悟った。

このリリアナという女性こそが、この屋敷における食物連鎖の頂点なのだと。

猛獣使い。

いや、猛獣の王を統べる「真の王」だ。

「サインですね。……おいジーク、さっさと書きなさい」

「リリーが書いてくれればいいのに……」

「公文書偽造になります。ほら、ペン」

「……あーん」

「は? 自分で持って」

ジークフリートは文句を言いながらも、リリアナに渡されたペンで大人しくサインをした。

セバスチャンは震える手で書類を受け取る。

「あ、ありがとう、ございます……」

「あ、そろそろ夕食の時間ですね。楽しみにしてますわ」

「セバス。私はここ(離れ)で食べるので、二人分運べ」

「か、畏まりました! 直ちに!」

セバスチャンは九十度の最敬礼をして、逃げるように部屋を辞した。

廊下に出た瞬間、彼は膝から崩れ落ちそうになった。

「恐ろしい……」

だが、同時に安堵もした。

あの方がいれば、もう閣下が暴走して屋敷が凍ることはないだろう。

手綱は、あの方の手の中にある。

セバスチャンは居住まいを正し、決意を固めた。

彼はすぐに使用人たちの詰め所へ戻り、厳重な通達を出した。

「総員、傾聴せよ!

今後、この屋敷の『真の主』はリリアナ奥様であると心得よ!

閣下の命令よりも、奥様の言葉を優先せよ!

奥様の機嫌を損ねれば、閣下の制御が外れ、我々は死ぬ!

心して仕えるように!」

「「「は、はいっ!」」」

使用人たちの間に、新たな掟が生まれた瞬間だった。

翌朝。

リリアナが目覚めると、朝食のグレードが劇的に上がっていた。

パンは焼き立ての最高級ブリオッシュになり、スープには金粉が浮いている。

廊下を歩けば、すれ違う使用人たちが、地面に額を擦り付ける勢いで平伏してくるようになった。

「おはようございます! リリアナ様! 今日も素晴らしい朝ですね!」

「お足元にお気をつけください! リリアナ様!」

「? おはよう……?」

リリアナは首を傾げた。

なぜ急に待遇が良くなったのか分からない。

(またあのバカ犬が、私の機嫌を取るために、金に物を言わせて圧力をかけたのかしら?)

まあ、実害はないし、ご飯が美味しいなら文句はない。

リリアナは気にせず、今日も平和な引きこもりライフを満喫することにした。

自分が屋敷の「裏ボス」として崇められていることなど、露知らずに。