作品タイトル不明
第八話 妻の祈り
そこは王都の外れの小さな祈祷場だった。
墓地からも離れた場所だ。
「なぜ、こんなところに……?」
ガレスが呟く。
「この場所に覚えはありませんか?」
アルトが尋ねると、ガレスは記憶を探るように目を細めた。
「……ああ。一度だけ来たことがあったな」
遠くを見るような目だった。
「結婚してすぐの頃かの。ここは、わしらの家からずいぶん遠いのだが、戦士の安全祈願に有名な祈祷所だと、あれが言ってな。わざわざ二人で来たことがあった」
「では、思い入れのある場所なのでは?」
「思い入れなどない」
ガレスは即座に答えた。
「忘れかけておったくらいだ。大した思い出でもない。女房に引っ張られて、しぶしぶ来ただけの場所だ」
そう言ってから、ガレスは少し眉を寄せる。
「それにしては、なぜこんなところに 探しものの馬車(ロスト・キャリッジ) が止まったのか……」
「当時、ここに来たきっかけは何だったのですか?」
「あれがどうしても、と言ってな。王都守備隊の兵士は危険なのだから、無事を祈願するのだと、一度だけ連れて来られたのだ」
ガレスは気まずそうに言った。
「あれは、わしの無事を真剣に祈ってくれていた。だが、わしはそれを笑い飛ばしてしまった。神頼みなど下らん、と言ってな」
「奥様は?」
「怒ったよ。後にも先にもあそこまで怒ったあれを見たことはない」
ガレスは苦いものでも噛んだかのように笑った。
「そりゃあ、怒るだろうな。今なら分かる。だが、その時のわしは若くてな。剣と腕さえあれば何とでもなると思っていた。祈りで敵の剣は止められん、などと偉そうに言ったものだ」
ガレスは祈祷所の扉を見上げた。
「それ以来、わしは一度もここへ来ていない」
「降りますか?」
アルトが尋ねた。
「……当時の札でも残っておれば、笑い話にはなるだろう」
ガレスはそう言って、馬車の扉へ手をかけた。
笑い話、と言ったわりに、その指先は少し震えているようだった。
二人は馬車を降り、祈祷所の中に入った。
祈祷所の奥には、古びた祈願札が壁一面に吊るされていた。
兵士の無事を願うもの。
重い傷の回復を願うもの。
帰らぬ家族の帰還を願うもの。
無数の木札が、年月に色を褪せさせ、静かに並んでいた。
「この中から探すのは、難しそうですね」
アルトが呟く。
だが、ガレスは答えなかった。
彼は一枚の古い札の前で足を止めていた。
「……あれの字だ」
かすれた声だった。
「間違いない。マルガレーテの字だ」
ガレスの視線の先に、古びた木札があった。
——王都守備隊 ガレス・オルドが、今年も無事でありますように。
マルガレーテ・オルド
聖暦1086年1月
しかし、ガレスは不思議そうに眉を寄せた。
「1086年……? ここに来たのは、1080年より前だったと思うのだが……」
「……こちらにも、奥様の札があります」
アルトが隣の木札を見た。
——夫ガレス・オルドが、今年も毎日無事に過ごせますように。
マルガレーテ・オルド
聖暦1096年1月
「こちらは、1096年ですね」
「1096年……」
「1102年のものも見つけました。これは年の初めではないですね」
——夫ガレス・オルドを、どうか、どうかお救いください。
マルガレーテ・オルド
聖暦1102年9月
「ああ、わしが魔物との戦いで大きな怪我をして、死にかけたときだ……」
ガレスは、震える手で木札に触れようとして、途中で止めた。
「1085年……1084年……1083年……。どういうことだ?」
ガレスは、乱暴に札をめくろうとして、すぐに手を引っ込めた。
壊してしまうことを恐れたようだった。
「こちらには、1121年のものもあります」
「1121年……?」
ガレスの声が震えた。
「今年ではないか」
アルトは、その札に書かれた文字を読んだ。
——夫ガレス・オルドが、今年も変わらず元気でおりますように。
マルガレーテ・オルド
聖暦1121年1月
ガレスは、言葉を失った。
アルトは、ふと思い立ったように言う。
「……僕は、もしかしたら奥様のことを知っているかもしれません」
「何?」
「マルガレーテさんを、お乗せしたことがあります。年の初めに、ここまで。今年だけではありません。僕が辻馬車を始めてから、毎年のように。とても明るくてすてきな方でした」
ガレスが、ゆっくりとアルトを見る。
「毎年……? ここ数年は、病で起き上がるのも辛かったはずなんだが……」
ガレスは、並んだ札を見つめた。
「馬鹿な女だ」
声が震えていた。
「こんな遠くまで来て、何をしておるのだ。自分の体のことでも祈ればよかったものを。わしの無事など、今さら祈ってどうする」
そう言いながら、ガレスの瞳から一筋の涙が流れた。
「まったく……本当に馬鹿な女だ」
ガレスはもう一度そう言った。
だが、その声は先ほどよりもずっと弱かった。
「 探しものの馬車(ロスト・キャリッジ) は、奥様の思い出ではなく、奥様の想いを探していたのですね」
「いや……違う」
ガレスは、アルトの言葉を静かに否定した。
「そんなきれいな話ではない」
ガレスは木札を見つめたまま言った。
「わしは、マルガレーテ本人を探していたのだ。あれがいなくなったことを認められないのだ。どうしてももう一度会って、礼を言いたかった」
「……」
「思い出でも、祈りでも、残された想いでも足りん。わしは、あれ本人に会いたかった」
誰も、何も答えない。
ガレスは木札の前に立ったまま、ぽつりと呟いた。
「マルガレーテ、そこにいるのだろう? 死んでもまだ、わしの無事を祈ってくれているのか?」
祈祷所は静まり返っていた。
だが、そのとき、窓もない祈祷所に、ふっと風が吹いた。
壁一面の木札が、かすかに揺れた。
ガレスは息を呑んだ。
「……そうか」
それだけ言って、ガレスは顔を伏せた。
「マルガレーテ……ありがとうな」
その声は、もう頑固な老兵のものではなかった。
「生きている間に、十分に感謝も恩返しもできんかった。すまん」
ガレスは涙でくしゃくしゃになった顔を、片手で乱暴に拭った。
「馬鹿は、わしの方だった」
「ガレスさん。差し出がましいかもしれませんが……」
アルトが静かに言う。
「あなたが毎日無事に家へ帰り、奥様の最期を看取られたことが、何よりの恩返しになったのではないでしょうか」
「いや……そんなことでは足りんのだ」
ガレスは即座に首を振った。
「足りるものか。礼も言わんかった。寒いと言われても、年寄りは寒がりで困るなどと笑った。薬を飲めと言われても、うるさいと怒鳴った。子どもができなかったことなどどうでもよいと、ちゃんと言ってやることもできなかった」
ガレスは、再び木札を一つ一つ見返した。
「こんなに祈ってくれていたのに、わしは何も返してやれんかった」
アルトは何も言えなかった。
やがて、ガレスがぽつりと呟いた。
「帰ろうか、マルガレーテ」
その声は、先ほどよりも少しだけ穏やかだった。
「わしらの家に」
二人は祈祷所を出て、馬車に戻った。
アルトは何も尋ねず、静かに手綱を鳴らす。
「アルトさん」
「はい」
「少し、遠回りしてもらえるか?」
「かしこまりました」
「帰りは、二人で思い出の場所を見て回りたい」
アルトは一度だけ頷いた。
辻馬車は、薄闇の王都をゆっくりと走っていく。
ガレスが、マルガレーテとの思い出を、もう一度辿れるように。