作品タイトル不明
第二十二話 王国を救えなかった王弟
「王国民すべてを幸せにする方法があると、そう言うのか?」
エルンストは訝しげにクラリスを見た。
「はい」
クラリスは即答した。
「ですが、それはとてつもなく難しいことだとも思います」
「その方法とは何だ」
エルンストの声に苛立ちが滲む。
「この 探しものの馬車(ロスト・キャリッジ) が殿下をここへ導いたのなら、ここに答えがあるのだと思います」
「だから、それは何だと聞いている」
クラリスは、救護院の中を見回した。
ルカが皿を並べている。
エマがパン籠を支えている。
ミリアがスープをよそい、熱のある子どもの器だけ少し冷ましている。
グスタフの焼いたパンが、子どもたちの前に置かれていく。
「隣にいる人を、助けることです」
エルンストは眉をひそめた。
「それだけで、王国民すべてを救えるわけがなかろう」
「一人では無理です」
クラリスは静かに頷いた。
「ですが、一人が隣の一人を助ける。助けられた人が、また別の誰かを助ける。そうして少しずつ広がっていけば、いつか王国全体に届くかもしれません」
「理想論だ」
「はい」
クラリスは否定しなかった。
「ですが、殿下が探しておられたものも、理想なのでしょう?」
エルンストは答えなかった。
「多くの者は、自分を守るだけで精一杯だ。他人を助ける余裕などない」
「それでいいのです」
「何?」
「自分を守れない人が、他人を助け続けることはできません。自分を犠牲にしてまで助けよ、とは思いません」
クラリスは、パンを配るルカを見た。
「けれど、人は一人では生きていけません。パンひとつ焼くにも、小麦を育てる人、粉を挽く人、火を起こす人、焼く人、運ぶ人が必要です」
エルンストは黙って聞いていた。
「本当に一人で生きている人など、この王国にはいないのだと思います。誰もが、どこかで誰かに支えられているのです。どう足掻いても、私たちはこの世界の一部なのです。せっかくならこの世界を、少なくとも自分の周りは明るい色にしたいではないですか」
「だから、隣人を助けろと?」
「いいえ」
クラリスは首を振った。
「自分も誰かに支えられている、この世界の一部なのだと知れば、ほんの少しだけ、隣の人に手を伸ばせるかもしれない。私は、そこから始めたいのです」
「それで王国が救えると?」
「すぐには救えません。
何度も言いますが、これはとてつもなく難しいことだと思います。でも、不可能ではないとも思います」
クラリスの声は揺れなかった。
「でも、一人を人として数えない王国を幸福とは呼べません。だから私は、まず隣にいる一人を数えます」
エルンストは鼻で笑った。
「机上の理屈にすぎんな」
「そうかもしれません」
クラリスは少しだけ微笑んだ。
「私も、殿下と同じでした。毎日、机上で書類と向き合って、支援先を決めて、必要なものを届ければ、多くの人を助けられると思っていました」
そこで、クラリスはアルトを見た。
「ですが、アルトさんに出会って、私は見つけたのです」
「何をだ?」
「書類の先にいる、血の通った本物の人々を」
アルトは何も言わなかった。
クラリスは続ける。
「そして、人を幸せにしようとすることで、自分も幸せになれるのだと知りました」
エルンストは、納得のいかない顔をしていた。
その時、ルカがやってきた。
皿の上に、焼きたてではないが、まだ温かさの残るパンが乗っている。
「おじさんも、どうぞ」
突然差し出されたパンに、エルンストは困惑した。
「……私にか?」
「うん」
ルカは当然のように頷いた。
「グスタフさんは怖いけど、グスタフさんのパンはすっごくうまいよ」
クラリスとアルトが、思わず小さく笑った。
「ルカさん。こちらは王弟殿下ですよ」
「えっ? 偉い人?」
ルカが目を丸くする。
けれど、すぐに皿を引っ込めることはしなかった。
「でも、パンは食べるでしょ?」
エルンストは、しばらくその皿を見つめていた。
やがて、苦笑する。
「そうだな。パンは食べる」
エルンストはパンを受け取り、一口齧った。
固すぎず、柔らかすぎず、素朴な味がした。
王城の食卓に並ぶ白いパンとは違う。
飾り気もない。
特別な味付けがされているわけでもない。
けれど、確かに温かかった。
「……うまい」
「そうでしょう?」
ルカが得意げに笑った。
「俺、今日それ運ぶの手伝ったんだ」
エルンストは、パンを見下ろした。
盗むしかなかった少年が、今は誰かにパンを配っている。
それは、王国民すべてを救う方法ではない。
だが、少なくとも一人の少年を、盗むしかなかった夜から、ここまで連れてきたものではあった。
エルンストは、もう一口、パンを齧った。