軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二十一話 すべては王国のため

やがて辻馬車は、一つの建物の前で止まった。

そこは、アルトには馴染みのある場所だった。

「ここは……救護院か?」

エルンストが眉をひそめる。

「はい。そのようですね」

アルトは御者台を降り、馬車の扉を開けた。

「 探しものの馬車(ロスト・キャリッジ) は、ここにエルンスト殿下の探しものがあると判断したようです」

「こんなところに……?」

エルンストは、救護院の建物を見上げた。

王城でもない。

大聖堂でもない。

有力者の屋敷でもなければ、大商人の店舗でもない。

王都の片隅にある、古びた救護院だった。

「ありえんな」

「ご自身で、お確かめください」

エルンストは一瞬だけ躊躇したが、やがて馬車を降りた。

「まあいい。時間ならある」

その言葉に、アルトは違和感を覚えた。

王弟エルンスト・ヴァレンシュタインと言えば、王国で最も忙しい男の一人として知られている。

国王を支え、政務を補佐し、王国の実務を回す者。

その彼が、時間ならある、と言ったのだ。

救護院の中は、夕食の準備で慌ただしかった。

グスタフのパンが籠に並べられている。

ルカが皿を数え、ミナが毛布に包まれてそれを見ている。

エマは小さな手でパン籠を支え、ミリアは湯気の立つスープを器によそっていた。

クラリスは名簿を片手に、子どもたちの人数を確認している。

「ルカ、その子はまだ熱があるから、パンは小さくちぎってスープに浸して」

「分かってるよ」

「エマ、その籠は重いでしょう。無理をしないで」

「大丈夫。パパが働いてるから、わたしも手伝うの」

エルンストは、その光景を無言で見ていた。

誰も彼に跪かない。

誰も王弟殿下と呼んで道を開けない。

ここにあるのは、王国の未来を決める政務でも、軍議でも、祝典でもない。

ただ、今夜の食事を行き渡らせるための、小さな仕事だった。

「あら、エルンスト殿下」

クラリスがこちらに気づき、驚いたように目を見開いた。

「こんなところで、どうされたのですか? アルトさんまで……もしかして、エルンスト殿下の探しものがここに?」

「クラリス」

エルンストは静かに言った。

「もう殿下とは呼ばなくていい」

「え……?」

「私は王弟ではなくなった」

クラリスの表情が固まる。

「どういうことですか」

「おまえが辺境視察の報告を、国王へ上げたからだ」

「私が……?」

「ああ。兄王は気づいたのだ。辺境支援の帳簿が、誰の手で歪められていたのかを」

エルンストはクラリスをまっすぐ見た。

「書類上、支援をしたことにしていたのは私だ」

クラリスは息を呑んだ。

「……ご冗談を」

「冗談ではない」

救護院の喧騒が、一瞬消えたかのようだった。

「そもそも、あの帳簿どおりの支援ができるほど、王都に資金があると思うか?」

「……」

「王国中の村に、十分な毛布を届ける。薬草を届ける。保存食を届ける。井戸を直し、家を直し、孤児を保護する。できるものなら、私だってそうしたかった」

エルンストの声は落ち着いていた。

だからこそ、重かった。

「だが、国庫には限りがある。人手にも、馬車にも、薬草にも、兵にも、すべて限りがある」

「だから、届いていない支援を、届いたことにしたのですか」

「そうだ」

クラリスの瞳が揺れた。

「なぜ……」

「王国を存続させるためだ」

エルンストは言った。

「王国の中心は王都だ。王都が倒れれば、辺境も、村も、救護院も、すべて終わる。王都の産業が衰えれば、国庫は空になる。騎士団も兵団も縮小される。魔物災害でも起きて王都が蹂躙されれば、救済どころではない」

「だから、辺境を切り捨てたのですか」

「切り捨てたのではない」

エルンストは低く返した。

「優先順位をつけただけだ」

クラリスは、唇を噛んだ。

「その優先順位から外された人たちは、帳簿の上で救われたことにされたのですよ」

「ああ」

「助けを求めることすら、できなくされたのですよ」

「ああ」

「それでも、正しかったと?」

エルンストは、すぐには答えなかった。

救護院の奥で、ミナがスープを一口飲んだ。

ルカがほっと息を吐く。

エマがパン籠を抱え直す。

ミリアが、こぼれたスープを布で拭う。

エルンストは、その小さな光景を見てから言った。

「正しかったと、思わなければならなかった」

クラリスは何も言えなかった。

エルンストの視線が、アルトへ向く。

「アルト・ヴェルナー」

「はい」

「私のしていたことに気づき、それを明るみに出そうとしたヴェルナー侯爵家を取り潰したのも私だ」

アルトの呼吸が止まった。

「……」

「ヴェルナー侯爵の告発は、王都そのものに罪を背負わせるものだと、私は考えた。王都の民を守るためには、侯爵家に罪をかぶせるしかないと信じた」

エルンストは、深く頭を下げた。

「すまなかった」

アルトは、すぐには答えられなかった。

十年分の言葉が、喉の奥で絡まっていた。

「名誉の回復はできる」

エルンストは言った。

「ヴェルナー侯爵家の冤罪を、王国として認めることもできる。おまえが望むなら、貴族の身分を戻すこともできるだろう」

「……ありがたいお話です」

アルトは、なんとか声を出した。

「ですが、僕はまだ、御者をやめるわけにはいきません」

「リディア・エーヴェルトを探しているからか?」

その名が出た瞬間、アルトの表情が変わった。

「……リディアをご存じなのですか」

「ああ。ヴェルナー侯爵家の令息の婚約者だということは知っていた」

「リディアは、どこにいるのですか」

エルンストは、目を伏せた。

「詳しい行方は知らない」

「……知らない?」

「私がしたのは、彼女の持つ証拠を王都に届かせるなと命じたことだけだ」

「それで、リディアは……」

「命を奪うことだけは禁じた」

エルンストは、はっきりと言った。

「それだけは約束する」

アルトは、拳を握りしめた。

その約束に安堵していいのか、怒ればいいのか、自分でも分からなかった。

「では、彼女はどこに……」

「分からない。すまないが……」

クラリスがエルンストに尋ねる。

「なぜ、今さら罪をお認めになったのですか?」

エルンストは小さく笑った。

「疲れたのだ」

「疲れた……?」

「ああ。一人で王都の罪を背負い続けることに」

救護院の灯りが、エルンストの横顔を照らしていた。

「私はずっと、必要なことをしているのだと思っていた。王国を守るため、王都を守るため、兄王の善政を守るため。誰かが汚れ役を引き受けなければならないのだと」

「……」

「だが、ラウネ村の報告を読んだ時、思ったのだ」

エルンストは、皿を並べるルカを見た。

小さな手でパン籠を支えるエマを見た。

スープをよそうミリアを見た。

名簿を握るクラリスを見た。

「私が守ろうとしていた王国とは、どこにあるのだろうな」

誰も答えなかった。

「私は、存在しえないものを探していた」

エルンストは静かに言った。

「だから、この馬車に乗った。もし本当に、探しものがある場所へ連れていくというなら、見せてもらおうと思った」

「何を、お探しになったのですか?」

クラリスが尋ねる。

エルンストは少しだけ沈黙した。

それから、気まずそうに口を開く。

「王国民すべてを幸せにする方法だ」

クラリスは言葉を失った。

エルンストは救護院を見渡した。

「だが、馬車が私に見せたのは、これだ」

ミナが、スープに浸したパンをもう一口食べる。

ルカが少しだけ笑う。

エマが眠そうに目をこすりながら、パン籠を運ぶ。

ミリアがその手を支える。

クラリスが、最後の一人まで数を確認する。

「一人の子どもが、パンを一口食べるだけの場所だ」

クラリスは静かに言った。

「はい」

「それだけでは、王国は救えない」

「はい」

「それでも、ここが答えだと言うのか」

クラリスは、エルンストをまっすぐ見つめた。

「私は、王国民すべてを幸せにする方法は、あると思います」