作品タイトル不明
第二十一話 すべては王国のため
やがて辻馬車は、一つの建物の前で止まった。
そこは、アルトには馴染みのある場所だった。
「ここは……救護院か?」
エルンストが眉をひそめる。
「はい。そのようですね」
アルトは御者台を降り、馬車の扉を開けた。
「 探しものの馬車(ロスト・キャリッジ) は、ここにエルンスト殿下の探しものがあると判断したようです」
「こんなところに……?」
エルンストは、救護院の建物を見上げた。
王城でもない。
大聖堂でもない。
有力者の屋敷でもなければ、大商人の店舗でもない。
王都の片隅にある、古びた救護院だった。
「ありえんな」
「ご自身で、お確かめください」
エルンストは一瞬だけ躊躇したが、やがて馬車を降りた。
「まあいい。時間ならある」
その言葉に、アルトは違和感を覚えた。
王弟エルンスト・ヴァレンシュタインと言えば、王国で最も忙しい男の一人として知られている。
国王を支え、政務を補佐し、王国の実務を回す者。
その彼が、時間ならある、と言ったのだ。
※
救護院の中は、夕食の準備で慌ただしかった。
グスタフのパンが籠に並べられている。
ルカが皿を数え、ミナが毛布に包まれてそれを見ている。
エマは小さな手でパン籠を支え、ミリアは湯気の立つスープを器によそっていた。
クラリスは名簿を片手に、子どもたちの人数を確認している。
「ルカ、その子はまだ熱があるから、パンは小さくちぎってスープに浸して」
「分かってるよ」
「エマ、その籠は重いでしょう。無理をしないで」
「大丈夫。パパが働いてるから、わたしも手伝うの」
エルンストは、その光景を無言で見ていた。
誰も彼に跪かない。
誰も王弟殿下と呼んで道を開けない。
ここにあるのは、王国の未来を決める政務でも、軍議でも、祝典でもない。
ただ、今夜の食事を行き渡らせるための、小さな仕事だった。
「あら、エルンスト殿下」
クラリスがこちらに気づき、驚いたように目を見開いた。
「こんなところで、どうされたのですか? アルトさんまで……もしかして、エルンスト殿下の探しものがここに?」
「クラリス」
エルンストは静かに言った。
「もう殿下とは呼ばなくていい」
「え……?」
「私は王弟ではなくなった」
クラリスの表情が固まる。
「どういうことですか」
「おまえが辺境視察の報告を、国王へ上げたからだ」
「私が……?」
「ああ。兄王は気づいたのだ。辺境支援の帳簿が、誰の手で歪められていたのかを」
エルンストはクラリスをまっすぐ見た。
「書類上、支援をしたことにしていたのは私だ」
クラリスは息を呑んだ。
「……ご冗談を」
「冗談ではない」
救護院の喧騒が、一瞬消えたかのようだった。
「そもそも、あの帳簿どおりの支援ができるほど、王都に資金があると思うか?」
「……」
「王国中の村に、十分な毛布を届ける。薬草を届ける。保存食を届ける。井戸を直し、家を直し、孤児を保護する。できるものなら、私だってそうしたかった」
エルンストの声は落ち着いていた。
だからこそ、重かった。
「だが、国庫には限りがある。人手にも、馬車にも、薬草にも、兵にも、すべて限りがある」
「だから、届いていない支援を、届いたことにしたのですか」
「そうだ」
クラリスの瞳が揺れた。
「なぜ……」
「王国を存続させるためだ」
エルンストは言った。
「王国の中心は王都だ。王都が倒れれば、辺境も、村も、救護院も、すべて終わる。王都の産業が衰えれば、国庫は空になる。騎士団も兵団も縮小される。魔物災害でも起きて王都が蹂躙されれば、救済どころではない」
「だから、辺境を切り捨てたのですか」
「切り捨てたのではない」
エルンストは低く返した。
「優先順位をつけただけだ」
クラリスは、唇を噛んだ。
「その優先順位から外された人たちは、帳簿の上で救われたことにされたのですよ」
「ああ」
「助けを求めることすら、できなくされたのですよ」
「ああ」
「それでも、正しかったと?」
エルンストは、すぐには答えなかった。
救護院の奥で、ミナがスープを一口飲んだ。
ルカがほっと息を吐く。
エマがパン籠を抱え直す。
ミリアが、こぼれたスープを布で拭う。
エルンストは、その小さな光景を見てから言った。
「正しかったと、思わなければならなかった」
クラリスは何も言えなかった。
エルンストの視線が、アルトへ向く。
「アルト・ヴェルナー」
「はい」
「私のしていたことに気づき、それを明るみに出そうとしたヴェルナー侯爵家を取り潰したのも私だ」
アルトの呼吸が止まった。
「……」
「ヴェルナー侯爵の告発は、王都そのものに罪を背負わせるものだと、私は考えた。王都の民を守るためには、侯爵家に罪をかぶせるしかないと信じた」
エルンストは、深く頭を下げた。
「すまなかった」
アルトは、すぐには答えられなかった。
十年分の言葉が、喉の奥で絡まっていた。
「名誉の回復はできる」
エルンストは言った。
「ヴェルナー侯爵家の冤罪を、王国として認めることもできる。おまえが望むなら、貴族の身分を戻すこともできるだろう」
「……ありがたいお話です」
アルトは、なんとか声を出した。
「ですが、僕はまだ、御者をやめるわけにはいきません」
「リディア・エーヴェルトを探しているからか?」
その名が出た瞬間、アルトの表情が変わった。
「……リディアをご存じなのですか」
「ああ。ヴェルナー侯爵家の令息の婚約者だということは知っていた」
「リディアは、どこにいるのですか」
エルンストは、目を伏せた。
「詳しい行方は知らない」
「……知らない?」
「私がしたのは、彼女の持つ証拠を王都に届かせるなと命じたことだけだ」
「それで、リディアは……」
「命を奪うことだけは禁じた」
エルンストは、はっきりと言った。
「それだけは約束する」
アルトは、拳を握りしめた。
その約束に安堵していいのか、怒ればいいのか、自分でも分からなかった。
「では、彼女はどこに……」
「分からない。すまないが……」
クラリスがエルンストに尋ねる。
「なぜ、今さら罪をお認めになったのですか?」
エルンストは小さく笑った。
「疲れたのだ」
「疲れた……?」
「ああ。一人で王都の罪を背負い続けることに」
救護院の灯りが、エルンストの横顔を照らしていた。
「私はずっと、必要なことをしているのだと思っていた。王国を守るため、王都を守るため、兄王の善政を守るため。誰かが汚れ役を引き受けなければならないのだと」
「……」
「だが、ラウネ村の報告を読んだ時、思ったのだ」
エルンストは、皿を並べるルカを見た。
小さな手でパン籠を支えるエマを見た。
スープをよそうミリアを見た。
名簿を握るクラリスを見た。
「私が守ろうとしていた王国とは、どこにあるのだろうな」
誰も答えなかった。
「私は、存在しえないものを探していた」
エルンストは静かに言った。
「だから、この馬車に乗った。もし本当に、探しものがある場所へ連れていくというなら、見せてもらおうと思った」
「何を、お探しになったのですか?」
クラリスが尋ねる。
エルンストは少しだけ沈黙した。
それから、気まずそうに口を開く。
「王国民すべてを幸せにする方法だ」
クラリスは言葉を失った。
エルンストは救護院を見渡した。
「だが、馬車が私に見せたのは、これだ」
ミナが、スープに浸したパンをもう一口食べる。
ルカが少しだけ笑う。
エマが眠そうに目をこすりながら、パン籠を運ぶ。
ミリアがその手を支える。
クラリスが、最後の一人まで数を確認する。
「一人の子どもが、パンを一口食べるだけの場所だ」
クラリスは静かに言った。
「はい」
「それだけでは、王国は救えない」
「はい」
「それでも、ここが答えだと言うのか」
クラリスは、エルンストをまっすぐ見つめた。
「私は、王国民すべてを幸せにする方法は、あると思います」