作品タイトル不明
第二十話 存在しえないものを探す王弟
その夜、アルトの辻馬車は、王城の城門前にあった。
夜更けの王城は静まり返っていた。
高い城壁の上では、松明の火が風に揺れている。
門を守る兵たちは、時おりこちらへ視線を向けたが、誰もアルトに声をかけようとはしなかった。
アルトは御者台のそばに立ち、じっと待っていた。
どれほど待っただろうか。
やがて、王城の門がゆっくりと開いた。
一人の男が、護衛も従者も連れずに出てくる。
簡素な外套を羽織ってはいたが、その立ち姿だけで、ただの貴族ではないと分かる。
背筋は伸び、足取りはしっかりとしていた。
だが、その顔には、長い政務を終えた者の疲労が薄く滲んでいた。
アルトは深く一礼し、馬車の扉を開ける。
男は黙って馬車に乗り込んだ。
アルトは扉を閉め、御者台へ戻る。
「王弟殿下。本日は、どちらへ?」
その男は、王弟エルンスト・ヴァレンシュタインだった。
善王と呼ばれる国王フリードリヒ・ヴァレンシュタインを支え、王国の政務を実質的に取り仕切る男。
王国の民からは、国王の善政を陰で支える賢弟として知られている。
彼はただ一人、夜の辻馬車に乗っていた。
「護衛もつけず、わざわざ一人でおまえの辻馬車に乗っているのだ」
エルンストは静かに言った。
「行き先などない。探したいものがあるだけだ」
「かしこまりました。では、出してよろしいでしょうか」
「ああ」
アルトが手綱を軽く鳴らす。
馬車は、王城の門前をゆっくりと離れた。
夜の王都を、辻馬車が走り出す。
※
「クラリス様から、この馬車のことをお聞きになったのですか?」
アルトが尋ねた。
「ああ。クラリスから聞いた」
エルンストは短く答える。
「おまえは確か……アルト、と言ったか」
「はい。アルト・ヴェルナーです」
「ヴェルナー……?」
エルンストの声が、わずかに変わった。
「どこかで聞いた名だな。貴族だったのか?」
「はい」
アルトは短く答えた。
「今は辻馬車の御者をしておりますが」
「それは見れば分かる」
エルンストは窓の外へ視線を向けた。
「ヴェルナー……ヴェルナー侯爵家か」
その名を口にしたあと、エルンストは少しだけ沈黙した。
「そうか。あの家の者だったのか」
「はい」
「政治的な問題で失脚した家だったな」
「そのように聞いております」
アルトの声は静かだった。
エルンストは、それ以上を尋ねなかった。
アルトも、それ以上を語らなかった。
車輪の音だけが馬車の中を満たしていた。
「……なるほど」
やがて、エルンストがぽつりと言った。
「ヴェルナー侯爵家が失脚したから、おまえは辻馬車の御者になった。おかげで私は今、この 探しものの馬車(ロスト・キャリッジ) に乗れているというわけか」
「……そのような言い方も、できるかもしれません」
エルンストは、わずかに口元を緩める。
「一つ聞きたい」
「はい」
「もし、私の探しものが、存在しえないものだった場合、この馬車はどうなる?」
アルトは少しだけ考えた。
「僕の経験上、人が想い描けるものであれば、この馬車は何かしらの場所へ連れていってくれます」
「人が想い描けるものなら、か」
「はい」
「では、死んだ人間を探していたらどうする?」
「その方の魂が残る場所へ連れていってくれるのだと思います」
エルンストは、ふっと鼻で笑った。
「私は、そこまで信心深くはない」
「そうでしたか」
「だが、死者を探す者の気持ちは分からなくもない。死者は少なくとも、かつて存在した」
エルンストの声は低かった。
「私が探しているものは、それよりずっと始末が悪い」
「存在しえないものを、お探しなのですか?」
「どうだろうな」
エルンストは、夜の王都を見つめた。
窓の向こうには、王城の灯りが遠ざかっていく。
代わりに、酒場の明かり、巡回兵の灯火、商店の閉ざされた窓が流れてくる。
「少なくとも、私はそれを存在しえないものだと考えている」
「それでも、お探しになるのですね」
「ああ」
エルンストは静かに答えた。
「存在しないと分かっていても、探さずにはいられないものがあるのだ」
アルトは、その言葉に少しだけ手綱を握り直した。
自分にも、そういうものがある。
十年前に消えた婚約者。
どこにいるのかも、生きているのかも分からない人。
それでも探さずにはいられなかった人。
エルンストは、そんなアルトの沈黙に気づいたのか、わずかに目を細めた。
「おまえにも、あるのか」
「……はい」
「そうか」
エルンストはそれ以上聞かなかった。
馬車は、夜の王都を進む。
王城でも、大聖堂でもない方角へ。
エルンストが眉をひそめた。
「どこへ向かっている?」
「馬車が選んだ道です」
「私は、まだ何を探しているかも告げていない」
「はい」
アルトは前を向いたまま答えた。
「ですが、この馬車は、乗客の方が本当に探しているもののある場所へ向かいます」
「……なるほど」
エルンストは、静かに背を預けた。
「では、見せてもらおうか」
辻馬車は、夜の王都を駆けていく。
王国を支える男が、存在しえないと信じながら、それでも探さずにはいられなかったものへ向かって。