軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十八話 失われた婚約者

ミリアが村の女たちとともに水を汲みに向かっている間、クラリスは長老から話を聞いていた。

アルトも馬車のそばに立ち、二人の会話に静かに耳を傾けていた。

「三年前、井戸の修繕費は王都から出ています」

クラリスは書類を確認しながら言った。

「保存食の支給も、薬草の納入も、冬用毛布の配布も、記録では毎年行われています」

「そうでしょうな」

長老は驚かなかった。

「王都では、ここはよほど恵まれた村なのでしょう」

「実際には、何も届いていないのですね」

「何も、とは言いません」

長老は乾いた畑へ目を向けた。

「王都の視察団は、何度か来ました。役人も来ました」

「物資は?」

「来ませんでした」

クラリスは唇を噛んだ。

「どうして、これまで訴えなかったのですか?」

「訴えました」

長老は静かに答えた。

「何度も」

「……」

「けれど、王都の書類上は、わしらはもう救われている。救われた者が、なぜまだ助けを求めるのかと、不思議そうな顔をされるだけです。人によっては、強欲だとまで……」

クラリスは返す言葉を失った。

彼女は初めて、自分が抱えてきた書類が、人を救うためのものではなく、人を見捨てた事実を覆い隠す布にもなり得るのだと知った。

「十年くらい前でしょうか……。あなたと同じようなことを言った娘さんがいましたな」

長老が、ふと思い出したように言った。

アルトの手が、わずかに止まる。

「娘さん……ですか?」

クラリスが尋ねる。

「ええ。王都から来た若い女の方で、貴族のようにも見えたが、不思議な娘さんでしたな。わしらを哀れむわけでもなく、何か……使命のようなものに追われているような、そんな目をしていました」

長老は記憶を探るように目を細めた。

「ただ、誰の話も最後まで聞いて、名前を書いてくれた」

気づけばアルトは長老に詰め寄っていた。

「その方の、お名前を覚えていらっしゃいますか?」

自分でも驚くほど、声がかすれていた。

長老がアルトを見る。

「名前ですか? リディア、という名前です」

その瞬間、世界の音がすべて失われた気がした。

「アルトさん?」

クラリスが不安そうに声をかける。

アルトは、長老を見つめたまま答えた。

「……リディアは、僕の婚約者です」

クラリスの顔から、血の気が引いた。

「リディア様が、この村に……?」

「そうでしたか……。ああ、そうだ。その娘さんが残していったものがあります」

長老は、村の奥にある古い家へ二人を案内した。

それは、柱の傾いた家だった。

中に入ると、長老は床板の一部を外し、古びた木箱を取り出した。

そこから出てきたのは、革紐で綴じられた薄い帳面だった。

表紙には、かすれた文字でこう書かれていた。

——ラウネ村聞き取り控え。

リディア・エーヴェルト。

アルトは、その名から目を離せなかった。

「……リディア」

かすれた声で、名前を呼ぶ。

「リディア・エーヴェルト……。間違いない」

クラリスは、そっと帳面を開いた。

中には、村人の名前が書かれていた。

病で働けなくなった者。

冬を越す毛布が足りない家。

薬草を待つうちに亡くなった子ども。

修繕されない井戸。

届いていない保存食。

それらが、一つ一つ、丁寧に記録されていた。

その筆跡は、静かで、乱れがなかった。

クラリスは、胸を押さえた。

帳面には、村の人々が苦しみながら過ごした夜が刻まれている。

ページをめくると、リディアの考察らしき文があった。

——王都の支援記録と、現地の証言、そして実態が一致しない。

——ラウネ村は、支援などされていない。

——支援済みにされた村である。

クラリスは息を呑んだ。

「支援済みにされた村……」

その言葉が、すべてを言い表していた。

さらにページをめくる。

後半の文字は、少しずつ乱れていた。

——忘れてはいけない。

——この村は、救われていない。

——私は、これを誰に届けるはずだった?

——ヴェルナー侯爵家へ。

——いいえ、違う。

——アルトに。

——帰ると約束した。

——忘れてはいけない。

——忘れたくない。

そこで、文字は途切れていた。

アルトは、何も言えなかった。

十年間。

自分は、リディアがどこかで助けを求めているのではないかと思っていた。

自分が探し続ければ、いつか辿り着けるのではないかと思っていた。

けれど、リディアもまた、何かを届けようとしていたのだ。

この村の声を。

届かなかった支援の真実を。

そして、自分との約束を。

「リディア様は……」

クラリスは帳面を抱えるように持った。

「この村が、支援を受けていないと気づいていたのですね」

長老が頷いた。

「あの娘さんは、王都へ必ず持ち帰ると言っていました」

長老は静かに言った。

「けれど、あの娘さんも、戻りませんでした」

アルトは目を閉じた。

風が、壊れた窓から入り込む。

古い帳面の紙が、かすかに揺れた。

クラリスは、アルトの横顔を見た。

いつも静かで、誰かの話を聞き、誰かを探しもののある場所へ運んでいた御者。

その彼が今、誰よりも行き先を失っているように見えた。

「アルトさん」

クラリスは静かに言った。

「この帳面を、王都へ持ち帰りましょう」

アルトはクラリスを見る。

「……はい」

「そして、ラウネ村への支援がどこで消えたのか調べます」

「……」

「リディア様が届けようとしたものを、今度こそ届けます」

「ありがとうございます」

アルトの声は震えていた。

「お礼を言うのは、まだ早いです」

クラリスは帳面を胸に抱いた。

「届くまで、終わりではありませんから」

夕暮れが近づく頃、ミリアが桶を抱えて戻ってきた。

白い法衣の裾は泥で汚れていた。

頬にも土がついている。

だが、彼女の表情は、王都を出た時よりもずっと穏やかだった。

「ただいま戻りました」

ミリアが言う。

村の女たちが、その後ろからゆっくりと歩いてくる。

誰も笑ってはいない。

けれど、最初に馬車を見た時のような警戒感は、少しだけ薄れているように見えた。

「ミリア様」

クラリスが声をかける。

「アルトさんの、行方不明の婚約者の方の痕跡が見つかったのです」

ミリアは少し驚いたような顔をする。

「アルトさんの……?」

アルトは何も言わなかった。

ただ、開かれた古い帳面を見つめていた。

ミリアはそれを見て、事情を察したようだった。

「そう……」

彼女は静かに呟いた。

「この村は、失われたままではなかったのですね」

「え?」

クラリスが聞き返す。

「見捨てずにいてくれた人がいたのでしょう?」

ミリアは、古い帳面を見た。

「村の人たちの名前も、届かなかった支援も、消えかけていた声も。その方が残していてくれた」

クラリスは頷いた。

「ええ」

「それなら、今度は私たちが届ける番ですわね」

ミリアは泥のついた手で、桶を置いた。

クラリスは帳面を胸に抱き、長老に向き直る。

「長老」

「はい」

「この村を、もう一度記録させてください。王都の書類ではなく、この村で生きている皆さんの言葉で」

長老は、しばらく黙っていた。

やがて、ゆっくりと頷く。

「……分かりました」

荒んだ村に、夕風が吹いた。

失われた村(ロスト・ヴィレッジ) 。

そう呼ばれていた場所で、失われかけた声が、もう一度誰かに届こうとしていた。