作品タイトル不明
第十七話 失われた村
ラウネ村——通称、 失われた村(ロスト・ヴィレッジ) 。
王国の中でも、最貧の村として一部に知られる村だった。
「この村に、また来ることになるとはね……」
ミリアが呟いた。
「この村をご存じなのですか?」
クラリスが尋ねる。
「ええ」
ミリアは、感情の薄い声で答えた。
「私の生まれ故郷ですから」
「ここが……」
クラリスは思わず呟いた。
荒れた畑。
痩せた土。
傾いた柵。
柱の腐りかけた小さな家々。
道を歩く人々は、誰もが痩せていた。
子どもたちはこちらを見ても駆け寄ってこない。
大人たちは馬車を見ると、警戒の色を浮かべた。
王都の救護院で見た貧しさとは違う。
人助けを求めるわけでもなく、盗もうとするのでもなく、ただ諦めている。
「 失われた村(ロスト・ヴィレッジ) ……ラウネ村……」
クラリスは膝の上の書類を開いた。
「記録の上では、辺境の中でも最も多くの支援物資が配給されています。家屋と井戸の修繕費も出ている。保存食、肥料、薬草、冬用の毛布も、かなりの量が届いているはずです」
「届いていないわ」
ミリアが短く言った。
クラリスが顔を上げる。
「一度も?」
「少なくとも、私がこの村にいた頃には」
ミリアは荒れた畑を見た。
「保存食が届いたことも、薬草が届いたことも、肥料が配られたこともない。井戸はずっと壊れかけていたし、冬の毛布は足りなかった。家が傾いても、修繕の職人なんて来ませんでした」
「でも、記録では……」
「記録の中では、この村は何度も救われていたのでしょうね」
ミリアの声は静かだった。
怒っているわけでも、嘆いているわけでもない。
けれど、その静けさがかえって重かった。
「ラウネ村は何も取り戻せない。だから、 失われた村(ロスト・ヴィレッジ) と呼ばれているのです」
「失われた……」
「ええ」
ミリアは、白い法衣の袖を握った。
「この村で失われるのは、物だけではありません。食べ物も、薬も、冬の薪も、子どもの未来も、何もかもが少しずつ失われていくのです」
クラリスは何も言えなかった。
「私は、たまたま聖属性の魔力があったから、教会に連れて行かれました」
ミリアは自嘲するように笑う。
「救われたのだと、王都の方々は言いました。女神様に見出された幸運な娘だと」
「……」
「でも、違うのです」
ミリアは、村の奥にある朽ちた小屋を見つめた。
「私は救われたのではありません。この村から、まだ使えるものとして持ち出されただけ。私自身も、この村から失われた一つなのです」
「ミリア様……」
「私が王都に行けば何かが変えられるかもしれないと思っていたわ。
けれど、王都で白い法衣を着ても、この村には何も届かなかった。私が民の前で涙を流しても、この村の井戸は直らなかった。私が聖女候補と呼ばれても、この村は失われたままだった」
その時だった。
村の入口にいた老人が、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
背は曲がり、顔には深い皺が刻まれている。
「王都の方々ですかな」
老人は、クラリスのドレスとミリアの法衣を見た。
「王都救済事業の視察で参りました。クラリス・レーヴェンハイトと申します」
クラリスが丁寧に頭を下げる。
老人は、しばらく彼女を見つめたあと、乾いた声で笑った。
「視察」
その一言だけで、歓迎されていないことが分かった。
「また、見に来ただけですか」
クラリスは息を呑んだ。
「また、というのは……」
「王都の方々は、いつも見に来ます。帳面に何かを書いて、困っていることはありませんかと尋ねて、そして帰っていく」
老人は、村の中央にある古い井戸を指差した。
「あの井戸も、三年前から書類の上では直っております」
クラリスの手元の書類が、かすかに震えた。
「……井戸は、修繕済みのはずです」
「ええ」
老人は頷いた。
「王都では、そうなのでしょう」
その言葉には何の感情も込められていなかった。
ミリアが、老人を見つめていた。
「長老……」
老人の目が、ミリアに向く。
「おや」
彼は少しだけ目を細めた。
「誰かと思えば、ミリアか」
「……お久しぶりです」
「立派になったな」
老人は白い法衣を見た。
「王都の人間らしくなった」
その言葉に、ミリアの肩がわずかに揺れた。
「私は……」
「責めているわけではない」
老人は静かに言った。
「出ていける者は、出ていけばいい。この村に残るよりは、その方がよほどいい」
ミリアは何も言えなかった。
「だが、王都へ行った者がきれいな服を着て戻ってきても、井戸は壊れたままで、薬草も届かん。腹を空かせた子どもが満たされるわけでもない」
クラリスは、胸の奥を刺されたように感じた。
ミリアだけではない。
それは、クラリスにも向けられた言葉だった。
「……届いていないものを、届いたことにはしません」
クラリスは、静かに言った。
老人が彼女を見る。
「王都の書類ではなく、この村で起きていることを記録させてください」
「記録して、どうなりますかな」
「王都へ持ち帰ります」
「王都から来た者たちは皆、そう言います」
「私は、必ず戻ります」
クラリスは老人の目を正面から見た。
「この村に、支援を届けます」
老人は、しばらく黙っていた。
やがて、視線をミリアへ移す。
「ミリア」
「はい」
「おまえは、わしらを同情しに来たのか」
ミリアは息を呑む。
以前の自分なら、村人の手を取り、涙を流し、つらかったですねと慰めただろう。
だが、今は違う。
涙だけでは、誰も救えないことを知った。
「いいえ」
ミリアは白い法衣の裾を持ち上げた。
「水を汲みに来たのです」
老人が、わずかに眉を動かした。
「井戸は壊れているぞ」
「では、どこまで行けば水がありますか?」
ミリアは長老に尋ねる。
「私に、桶を貸してください」
クラリスが、驚いてミリアを見た。彼女もまた、ミリアが以前のミリアではないことに気づいた。
聖女候補ミリア・フローレンスは、民のために涙を流すためにこの村へ戻ってきたのではない。
失われた村に、もう一度何かを届けるために戻ってきたのだ。