作品タイトル不明
第十六話 辺境へ向かう公爵令嬢と聖女候補
その日、アルトの辻馬車は、朝の王都を出立した。
馬車に乗るのは、公爵令嬢クラリス・レーヴェンハイトと、聖女候補ミリア・フローレンスの二人。
慣れ親しんだ王都の外門を抜けると、風景は少しずつ変わっていった。
整えられた石畳は途切れ、やがて土の道になる。
馬車の車輪は、雨の後に固まった轍を踏みながら進んでいく。
王都の中ではどこまでも続いているように思えた建物も、今は遠く背後にあった。
目の前に広がるのは、低い草と、痩せた畑と、乾いた風の吹く荒野だった。
「アルトさんは、王都から外に出たことはあるの?」
クラリスが、御者台へ声をかけた。
「いえ、ありません」
アルトは前を向いたまま答えた。
「ただ、憧れのようなものはありました」
「憧れ? 王都の外に?」
「はい。子どもの頃、城壁の上から王都の外を見たことがありまして」
アルトは少しだけ懐かしむように言った。
「世界はこんなにも広いのかと、驚きました。いつか、自分もあの外へ出てみたいと思っていました」
「じゃあ、夢が叶ったのね」
「はい。ご依頼いただいたおかげです」
アルトは小さく息を吐く。
「少し、浮き立っております」
「そのわりには、ずいぶん冷静に見えますけれどね」
クラリスが楽しそうに笑った。
すると、それまで黙っていたミリアが、ぽつりと呟いた。
「王都の外なんて、憧れるような場所ではありませんわ」
その声は、冷たいというより、どこか遠いものを見ているようだった。
「え?」
クラリスがミリアを見る。
「ミリア様は、王都の外に出られたことがあるのですか?」
ミリアは、少しだけ沈黙した。
やがて、窓の外へ視線を向けたまま答える。
「私は、辺境の生まれですから」
「えっ……」
クラリスは思わず声を漏らした。
金の髪をなびかせ、白い法衣に身を包んだ聖女候補。
王都の民に微笑み、民の手を取って涙を流す女性。
クラリスは、どこか勝手に、ミリアを王都の人間だと思い込んでいた。
「驚かれるのも無理はありませんわ」
ミリアは小さく笑った。
「王都では、あまり言わないようにしていましたから」
「なぜですか?」
「辺境の出だと知ると、皆様、少しだけ目の色を変えるのです」
ミリアの声は穏やかだった。
けれど、その奥には、薄い諦めのようなものがあった。
「かわいそうな娘だと思う方もいます。よくここまで来たと褒める方もいます。逆に、だから品がないのだと陰で笑う方もいます」
「……」
「どれも、少し面倒でした」
クラリスは言葉を失った。
ミリアには、王都へ来る前の過去があるのだ。
白い法衣をまとって民衆の前に立つより前に、痩せた土地で暮らしていた日々があったのだ。
「辺境は、大変なところよ」
ミリアは窓の外を見つめたまま続ける。
「土地が痩せています。人も痩せています。外から物が入ってくることも少ない。薬草が届くのを待っているうちに、病が悪くなることもあります」
「でも、王都からの支援が届いているはず……」
クラリスが言いかける。
ミリアは静かに目を伏せた。
「その支援が本当に届いているのかを確かめることが、今回の視察の目的なのでしょう?」
「ええ……そうですわね」
クラリスは膝の上の書類に目を落とした。
毛布。
薬草。
保存食。
井戸の修繕費。
孤児院の補助金。
どれも、人を救うための項目のはずだった。
けれど、ミリアの声を聞いたあとでは、その整った文字が、少しだけ頼りなく見えた。
※
馬車はいくつかの村に止まった。
いや、それは「いくつか」程度で済むものではなかった。
王都から離れ、辺境に近づくほど、馬車が止まる頻度は増えていった。
小さな井戸が壊れたままの村。
施療所に薬草が届いていない村。
冬を越す毛布が足りていない村。
孤児の人数が、王都の名簿よりも明らかに多い村。
そのたびにクラリスは馬車を降り、話を聞き、書類に記録した。
予定していた旅程は、早々に意味を失った。
「おかしいわね……」
何度目かの村を出たあと、クラリスが呟いた。
「何がですか?」
ミリアが尋ねる。
「私はこの 探しものの馬車(ロスト・キャリッジ) に、『支援が行き届いていない村』を探してくれるように願っていました」
「ええ」
「だから、馬車が村へ導いてくれること自体は分かるのです。けれど……」
クラリスは、手元の記録を見下ろした。
「数が多すぎるわ」
その声は、かすかに震えていた。
「王都では、毎年、各地から要望を受けています。必要な村には、毛布も薬草も保存食も、修繕費も送っているはずなのです。もちろん、把握しきれないところがあるとは思っていました。けれど、ここまで多いなんて……」
ミリアは驚かなかった。
むしろ、どこか予想していたような顔をしていた。
「王都から見た辺境と、辺境で生きる者が見る辺境は、きっと違いますわ」
「……そうかもしれません」
「支援は、書類に書いただけでは届いたことになりません。クラリス様、あなたが一番、そのことをご存じではないのですか?」
ミリアの言葉に、クラリスは黙り込んだ。
「実際のところが見られたのです。視察の意味はあったと思いますわ」
「ええ」
クラリスはゆっくり頷いた。
「でも、まだ納得できません」
「納得?」
「支援が不足している村を探していたはずなのに……」
クラリスは窓の外へ視線を向けた。
「まるで、支援が届かないようにされている村を、馬車が探しているように思えるのです」
その言葉に、ミリアも口を閉ざした。
そんな二人を乗せて、馬車はさらに王国の荒野を進んでいく。
乾いた風が吹き、車輪が深い轍を越えた。
やがて、旅の最後に、馬車は そ(・) の(・) 村へたどり着いた。
王都の書類では、すでに支援済みと記されている村の一つだった。