作品タイトル不明
第十五話 日々の営みの中で
その日の夜、再びアルトの辻馬車は救護院の前にあった。
アルトは乗客を待っている間、ついうとうとしてしまった。
「あら、アルトさん。お疲れのご様子ね」
その声に驚き、アルトは目を覚ました。
見ると、声をかけてきたのはクラリスだった。
「もしお疲れでしたら、今夜は私が御者を務めましょうか?」
そう言って、クラリスが小さく笑う。
「お戯れを……。どうぞ、お乗りください。僕は大丈夫です」
アルトは御者台から降り、馬車の扉を開けた。
クラリスはもう慣れた様子で馬車に乗り込む。
アルトも御者台に戻った。
「昨晩は、ミリア様とずっとご一緒だったのでしょう?」
クラリスの声には、ほんの少しだけ棘があった。
アルトは馬車の小窓越しに首を傾げる。
「何かまずかったでしょうか?」
「別に、何もまずくないわよ」
そう言いながら、クラリスの声にはやはり、どこか拗ねたような響きがあった。
「……おかしいわね。私がミリア様に紹介したのに」
「何か仰いましたか?」
「何でもないわ」
「そうですか……」
二人の間に、少しだけ気まずい沈黙が流れた。
「でも、アルトさんには感謝しているわ」
「でも……?」
「今日は嫌に突っかかってくるわね」
あなたのほうこそ、という言葉を、アルトは飲み込んだ。
「救護院に無事パンが届いたこともそうですし、ミリア様の悩みも少し晴れたようでした。アルトさんのおかげでしょう?」
「いえ。僕ではありません。ミリア様ご自身と、グスタフさんのおかげでしょうか」
「グスタフさん?」
「パン屋のご主人です」
「ああ、あの方はグスタフさんと仰るのね」
クラリスは少し恥じ入るように目を伏せた。
「いつもパンを焼いてくださっているのに、お名前も覚えていなかったなんて、私も失礼だったわ」
「そうですね。お世話になっている方のお名前は、覚えておくべきです」
アルトは少しだけ、やり返した気分になった。
クラリスはむっとしたように眉を上げたが、すぐに小さく笑った。
「……ええ。おっしゃる通りだわ」
「失礼いたしました」
「いいえ。今のは私が悪いもの」
クラリスは窓の外へ視線を向ける。
「けれど、 探しものの馬車(ロスト・キャリッジ) が、ミリア様をパン屋に連れていったのでしょう?」
「はい」
「ミリア様は、何を探していらしたのかしら」
「お話を伺う限りでは、聖女になるための何かか、女神様のいらっしゃる場所か……そのようなものだったのではないかと思います」
「それで、なぜパン屋が行き先に?」
「女神様のお考えは深遠で、僕たちの考えの及ぶところではないようです」
「……」
「けれど、ミリア様ご自身は納得されていたようでした」
クラリスは少し黙って考えていたようだが、やがて口を開いた。
「私には、聖女候補様のお考えも、女神様のお考えも、どちらも分からないわ」
「はい」
「私に分かるのは、必要な物資を調達するための書類作業と、それが届いた先の人たちの笑顔くらい」
「そういう日々の営みの中に、女神様がいらっしゃるのかもしれません」
クラリスは、少しだけ目を丸くした。
「アルトさん、昨晩のミリア様との旅で、ずいぶん信心深くなられたのね」
「そうかもしれません」
「では、私も少しは敬虔に振る舞うべきかしら」
「そうしていただけると、女神様もお喜びになるかと」
「つまり、機嫌を直しなさいということ?」
「そこまでは申し上げておりません」
「申し上げているわ」
クラリスが拗ねたように言う。
アルトは小さく笑った。
「では、その笑顔を見ている女神様のためにも、機嫌を直してください」
「……別に、機嫌は悪くないわ」
「そうですか」
アルトは穏やかに答える。
「では、今夜はどちらに向かわれますか?」
「そうね……。アルトさんはお疲れのようですから、今日はまっすぐ帰るわ」
「お気遣いありがとうございます」
アルトは軽く頭を下げた。
「クラリス様に、女神様の加護があらんことを」
「ふふ……。私のために祈ってくださってありがとう」
アルトは小さく微笑み、手綱を鳴らした。
馬車がゆっくりと走り出す。
辻馬車は今夜も、女神が見守る王都を走る。