作品タイトル不明
第十四話 女神様のいるところ
「ここは……?」
ミリアが呟く。
「グスタフ・ローデンのパン屋です」
アルトが答えた。
「パン屋……?」
ミリアは、呆然とする。
「なぜこんなところに……」
「僕は何をお探しなのかも存じませんので……」
アルトも困ったように言った。
そのとき、パン屋の奥から主人のグスタフ・ローデンが顔を出した。
「あれ、アルトさん、パンの余りを取りに来たので?」
「あ、いえ。今日は救護院から聖女候補の方をお連れして……」
「ああ、救護院のパンの件ですか? ちょうどよかった。ちょっとパンの仕込みに時間がかかっちまって、明日の分が間に合わなそうで、連絡しようと……」
「パンが間に合わないのですか?」
「はい、すみません。ちょっとここのところ、立て込んでいて……」
アルトは、グスタフがルカとミナを気にするあまり、ここのところあまり仕事に時間を取れていないのだろうと思った。
「もし人手が足りていないのでしたら、お手伝いさせていただけませんか?」
ミリアが突然そう言った。
「えっ?」
グスタフが驚いた顔をする。
「救護院の方々にどうしてもパンを届けてあげたいのです」
「いや、しかし……」
「僕も手伝いますよ。いつももらってばかりで、心苦しかったので……」
アルトもそう申し出た。
「アルトさんまで……? はは、まいったな……」
※
パン屋の工房は、夜にもかかわらず、熱気に満ちていた。
袋に入った小麦粉。水桶。作業台の上に置かれた木桶。火の入った石窯。
大聖堂や救護院で過ごすことがほとんどのミリアには、馴染みの薄いものばかりだった。
「まさか聖女候補の方に、パン屋の手伝いをさせることになるとはな」
グスタフが気まずそうに言った。
「救護院の方々に届けるパンなのでしょう?」
ミリアは白い法衣の袖をまくった。
「聖女候補が手伝うには十分な理由だわ」
「そうかい。じゃあ、遠慮なく頼むぞ」
グスタフは袋の小麦粉を桶に移し、ふるいにかけた。
「まず粉をふるう。粉の塊をほぐして、殻や小石が混じってりゃここで落とす」
「小石……」
「小石の混じったパンを、子どもに食わせるわけにはいかねえだろ」
その言葉に、ミリアは少しだけ驚いた。
粉をふるう、そんな地味な作業にも、誰かを傷つけないための意味があったのだ。
グスタフは小麦粉と塩とパン種を手早く混ぜ、慣れた手つきで 捏(こ) ねてみせた。
「捏ねてもらえるかい?」
まずはアルトが、見よう見まねで生地に手を置く。
「うん、悪くない。だが、もうちょっと腰を入れろ。力で押すだけじゃねえ。体重を乗せるんだ」
アルトは言われた通りに捏ねていく。
「よし。じゃあ、ミリア様にも頼むか」
グスタフが別の生地を用意し、ミリアの前に置いた。
ミリアもアルトの動作を真似るように、生地を捏ねる。
「ぜんぜんだめだな」
グスタフが容赦なく言った。
「もっと力を入れて。体重を乗せるんだ」
「は、はい……」
ミリアは必死に生地を押す。
生地は柔らかいのに重い。押すのも畳むのも思うようにいかない。
すぐに腕が痛くなり、額に汗が滲んだ。
「まだまだ。手を止めるな」
「こんなの……無理……」
ミリアはついに手を止めてしまった。
グスタフが低い声で言う。
「救護院の連中に、腹を空かせて朝を迎えさせるのか?」
ミリアは、はっと顔を上げた。
そして、再び生地に手を置いた。
これは、自分の修行ではない。自分が聖女にふさわしいかを試されているのでもない。
救護院で朝を待つ人たちのためのパンを用意する。そのことは、自分が聖女に相応しいかどうかなどということより、よほど大事なことのように思えた。
そうして、夜は更けていった。
※
捏ねた生地を休ませている間、ミリアとアルトは少しだけ休息した。
やがて、グスタフがパン生地にかけた布を外す。
「よし。分けるぞ」
膨らんだ生地を、グスタフは手早くちぎり、丸めていく。
「1つの生地を36個に分けるんだ。小さいのを12個。柔らかめを6つ。残りは普通のやつだ」
「そんなに細かく分けるのですか?」
「当たり前だ。小さい子には大きすぎると食えねえ。熱を出した子には、硬いパンをそのまま出すな。スープに浸してやるんだ」
ミリアは黙って頷いた。
治癒の奇跡を与えることだけが、人を助けるのではない。食べられる大きさにすること。柔らかくすること。熱を出した子が飲み込める一口を用意すること。
それもまた、救いなのだ。
グスタフは火かき棒で石窯の中を整え、丸めた生地を窯へ入れていった。
しばらくすると、パンの香ばしい匂いが工房に漂い始める。
グスタフが窯からパンを引き出した。
きれいな狐色をしたパンが、作業台の上に並んでいく。
「わあ……」
ミリアは思わず声を漏らした。
粉と水と塩とパン種だったものが、パンになっていた。
ただそれだけのことなのに、ミリアには、それがひどく不思議なことのように思えた。
「聖女候補様の捏ねたパンだ。味見してみな」
グスタフが一つ差し出す。
ミリアは両手で受け取った。
「熱っ……」
「焼きたてだからな。気をつけろ」
ミリアは恐る恐る、少しだけ口にした。
温かかった。
今まで食べてきたパンとは違う。形も少しいびつで、表面も少し固い。
けれど、その温かさが、胸の奥へゆっくり染み込んでいくようだった。
「……おいしい」
「そりゃよかった」
グスタフは照れくさそうに「ふん」と鼻を鳴らした。
「俺ができるのは、パンを焼くことだけだ。病を治すことも、祈ることもできねえ」
そう言って、焼き上がったパンを一つずつ籠へ入れていく。
「だがな、腹を空かせているやつがこれを食えば、少しは力が出る。辛い目に遭ったやつでも、温かいパンをかじれば、ほんの少しだけ幸せになれることがある」
ミリアは、手の中のパンを見つめた。
「ほんの少し……」
「そうだ。ほんの少しだ」
グスタフは淡々と言った。
「だが、そのほんの少しがなきゃ、人は生きていけねえんだ」
その言葉が、飲み込んだパンとともに、ミリアの胸の奥に落ちた。
奇跡とは、病を一瞬で癒す光のことだと思っていた。
民衆の前で起きる、誰の目にも明らかな女神の恩恵だと思っていた。
けれど——
腹を空かせた子どもが、朝、温かいパンを一口食べられること。熱を出した子が、スープに浸した柔らかいパンを飲み込めること。今日を諦めかけた誰かが、明日も少しだけ生きてみようと思えること。
それもまた、奇跡なのではないか。
ミリアの目から、涙がこぼれた。
「おいおい、大げさだな。そんなにうまかったか?」
グスタフが困ったように言う。
ミリアは小さく首を振った。
「いいえ……。おいしいだけではないのです」
ミリアは、パンの入った籠を見つめた。
「私、何も分かっていませんでした」
大聖堂の祭壇。
美しく咲く白い花。
民衆の涙。
女神の名を呼ぶ祈り。
女神様は、そういう場所にだけいらっしゃるのだと思っていた。
けれど、そうではないのだという気がした。
粉をふるう手元にも。
夜通し石窯の火を見る職人の横顔にも。
誰かにほんの少しの幸せを届けるために数えられたパンの中にも。
——女神様はいてくださるのかもしれない。
「女神様は……大聖堂や教会や祈祷所にだけいらっしゃるのではないのですね」
ミリアは小さく呟いた。
「ささやかだけれど、こういう場所にも、小さな奇跡を置いてくださっているのかもしれません」
グスタフはしばらくぽかんとしていたが、やがて声を上げて笑った。
「何だかわからんが、うまけりゃよかった」
それから、籠をアルトの方へ押し出す。
「さあ、救護院でパンを待ってる連中がいるんだろう? 持っていってくれ」
「はい」
ミリアもパンの詰まった籠を両腕で抱えた。
疲れ切った腕に、その籠は重かった。けれど、その重さが嫌ではなかった。
「グスタフさん、ありがとうございました」
ミリアが言うと、グスタフは照れくさそうに片手を上げた。
「礼なら、ちゃんと届けてから言いな」
アルトも籠を馬車に積み、御者台へ上がる。
軽く手綱が鳴った。
馬車がゆっくりと走り出す。
すでに夜は明けかけていた。
朝焼けに照らされた王都を、辻馬車が駆けていく。
救護院で待つ人々へ、明日を届けるために。