軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十四話 女神様のいるところ

「ここは……?」

ミリアが呟く。

「グスタフ・ローデンのパン屋です」

アルトが答えた。

「パン屋……?」

ミリアは、呆然とする。

「なぜこんなところに……」

「僕は何をお探しなのかも存じませんので……」

アルトも困ったように言った。

そのとき、パン屋の奥から主人のグスタフ・ローデンが顔を出した。

「あれ、アルトさん、パンの余りを取りに来たので?」

「あ、いえ。今日は救護院から聖女候補の方をお連れして……」

「ああ、救護院のパンの件ですか? ちょうどよかった。ちょっとパンの仕込みに時間がかかっちまって、明日の分が間に合わなそうで、連絡しようと……」

「パンが間に合わないのですか?」

「はい、すみません。ちょっとここのところ、立て込んでいて……」

アルトは、グスタフがルカとミナを気にするあまり、ここのところあまり仕事に時間を取れていないのだろうと思った。

「もし人手が足りていないのでしたら、お手伝いさせていただけませんか?」

ミリアが突然そう言った。

「えっ?」

グスタフが驚いた顔をする。

「救護院の方々にどうしてもパンを届けてあげたいのです」

「いや、しかし……」

「僕も手伝いますよ。いつももらってばかりで、心苦しかったので……」

アルトもそう申し出た。

「アルトさんまで……? はは、まいったな……」

パン屋の工房は、夜にもかかわらず、熱気に満ちていた。

袋に入った小麦粉。水桶。作業台の上に置かれた木桶。火の入った石窯。

大聖堂や救護院で過ごすことがほとんどのミリアには、馴染みの薄いものばかりだった。

「まさか聖女候補の方に、パン屋の手伝いをさせることになるとはな」

グスタフが気まずそうに言った。

「救護院の方々に届けるパンなのでしょう?」

ミリアは白い法衣の袖をまくった。

「聖女候補が手伝うには十分な理由だわ」

「そうかい。じゃあ、遠慮なく頼むぞ」

グスタフは袋の小麦粉を桶に移し、ふるいにかけた。

「まず粉をふるう。粉の塊をほぐして、殻や小石が混じってりゃここで落とす」

「小石……」

「小石の混じったパンを、子どもに食わせるわけにはいかねえだろ」

その言葉に、ミリアは少しだけ驚いた。

粉をふるう、そんな地味な作業にも、誰かを傷つけないための意味があったのだ。

グスタフは小麦粉と塩とパン種を手早く混ぜ、慣れた手つきで 捏(こ) ねてみせた。

「捏ねてもらえるかい?」

まずはアルトが、見よう見まねで生地に手を置く。

「うん、悪くない。だが、もうちょっと腰を入れろ。力で押すだけじゃねえ。体重を乗せるんだ」

アルトは言われた通りに捏ねていく。

「よし。じゃあ、ミリア様にも頼むか」

グスタフが別の生地を用意し、ミリアの前に置いた。

ミリアもアルトの動作を真似るように、生地を捏ねる。

「ぜんぜんだめだな」

グスタフが容赦なく言った。

「もっと力を入れて。体重を乗せるんだ」

「は、はい……」

ミリアは必死に生地を押す。

生地は柔らかいのに重い。押すのも畳むのも思うようにいかない。

すぐに腕が痛くなり、額に汗が滲んだ。

「まだまだ。手を止めるな」

「こんなの……無理……」

ミリアはついに手を止めてしまった。

グスタフが低い声で言う。

「救護院の連中に、腹を空かせて朝を迎えさせるのか?」

ミリアは、はっと顔を上げた。

そして、再び生地に手を置いた。

これは、自分の修行ではない。自分が聖女にふさわしいかを試されているのでもない。

救護院で朝を待つ人たちのためのパンを用意する。そのことは、自分が聖女に相応しいかどうかなどということより、よほど大事なことのように思えた。

そうして、夜は更けていった。

捏ねた生地を休ませている間、ミリアとアルトは少しだけ休息した。

やがて、グスタフがパン生地にかけた布を外す。

「よし。分けるぞ」

膨らんだ生地を、グスタフは手早くちぎり、丸めていく。

「1つの生地を36個に分けるんだ。小さいのを12個。柔らかめを6つ。残りは普通のやつだ」

「そんなに細かく分けるのですか?」

「当たり前だ。小さい子には大きすぎると食えねえ。熱を出した子には、硬いパンをそのまま出すな。スープに浸してやるんだ」

ミリアは黙って頷いた。

治癒の奇跡を与えることだけが、人を助けるのではない。食べられる大きさにすること。柔らかくすること。熱を出した子が飲み込める一口を用意すること。

それもまた、救いなのだ。

グスタフは火かき棒で石窯の中を整え、丸めた生地を窯へ入れていった。

しばらくすると、パンの香ばしい匂いが工房に漂い始める。

グスタフが窯からパンを引き出した。

きれいな狐色をしたパンが、作業台の上に並んでいく。

「わあ……」

ミリアは思わず声を漏らした。

粉と水と塩とパン種だったものが、パンになっていた。

ただそれだけのことなのに、ミリアには、それがひどく不思議なことのように思えた。

「聖女候補様の捏ねたパンだ。味見してみな」

グスタフが一つ差し出す。

ミリアは両手で受け取った。

「熱っ……」

「焼きたてだからな。気をつけろ」

ミリアは恐る恐る、少しだけ口にした。

温かかった。

今まで食べてきたパンとは違う。形も少しいびつで、表面も少し固い。

けれど、その温かさが、胸の奥へゆっくり染み込んでいくようだった。

「……おいしい」

「そりゃよかった」

グスタフは照れくさそうに「ふん」と鼻を鳴らした。

「俺ができるのは、パンを焼くことだけだ。病を治すことも、祈ることもできねえ」

そう言って、焼き上がったパンを一つずつ籠へ入れていく。

「だがな、腹を空かせているやつがこれを食えば、少しは力が出る。辛い目に遭ったやつでも、温かいパンをかじれば、ほんの少しだけ幸せになれることがある」

ミリアは、手の中のパンを見つめた。

「ほんの少し……」

「そうだ。ほんの少しだ」

グスタフは淡々と言った。

「だが、そのほんの少しがなきゃ、人は生きていけねえんだ」

その言葉が、飲み込んだパンとともに、ミリアの胸の奥に落ちた。

奇跡とは、病を一瞬で癒す光のことだと思っていた。

民衆の前で起きる、誰の目にも明らかな女神の恩恵だと思っていた。

けれど——

腹を空かせた子どもが、朝、温かいパンを一口食べられること。熱を出した子が、スープに浸した柔らかいパンを飲み込めること。今日を諦めかけた誰かが、明日も少しだけ生きてみようと思えること。

それもまた、奇跡なのではないか。

ミリアの目から、涙がこぼれた。

「おいおい、大げさだな。そんなにうまかったか?」

グスタフが困ったように言う。

ミリアは小さく首を振った。

「いいえ……。おいしいだけではないのです」

ミリアは、パンの入った籠を見つめた。

「私、何も分かっていませんでした」

大聖堂の祭壇。

美しく咲く白い花。

民衆の涙。

女神の名を呼ぶ祈り。

女神様は、そういう場所にだけいらっしゃるのだと思っていた。

けれど、そうではないのだという気がした。

粉をふるう手元にも。

夜通し石窯の火を見る職人の横顔にも。

誰かにほんの少しの幸せを届けるために数えられたパンの中にも。

——女神様はいてくださるのかもしれない。

「女神様は……大聖堂や教会や祈祷所にだけいらっしゃるのではないのですね」

ミリアは小さく呟いた。

「ささやかだけれど、こういう場所にも、小さな奇跡を置いてくださっているのかもしれません」

グスタフはしばらくぽかんとしていたが、やがて声を上げて笑った。

「何だかわからんが、うまけりゃよかった」

それから、籠をアルトの方へ押し出す。

「さあ、救護院でパンを待ってる連中がいるんだろう? 持っていってくれ」

「はい」

ミリアもパンの詰まった籠を両腕で抱えた。

疲れ切った腕に、その籠は重かった。けれど、その重さが嫌ではなかった。

「グスタフさん、ありがとうございました」

ミリアが言うと、グスタフは照れくさそうに片手を上げた。

「礼なら、ちゃんと届けてから言いな」

アルトも籠を馬車に積み、御者台へ上がる。

軽く手綱が鳴った。

馬車がゆっくりと走り出す。

すでに夜は明けかけていた。

朝焼けに照らされた王都を、辻馬車が駆けていく。

救護院で待つ人々へ、明日を届けるために。