作品タイトル不明
第5話 空っぽの部屋
第5話 空っぽの部屋
土曜日の朝だった。
カーテンの隙間から入り込む光が、床に細く伸びている。
桃子はベッドの上でゆっくり目を開けた。
静かだった。
いつもなら休日は二度寝をするのに、その日は目覚ましより早く起きてしまった。
枕元の時計を見る。
午前七時二十分。
マンション売却の契約が正式に決まったのは、三日前だった。
担当者は丁寧な男性で、淡々と説明を進めた。
『立地が良いので、かなり条件いいですよ』
その言葉を聞いても、桃子の心はあまり動かなかった。
高く売れたことより、
「もうここを出る」
という事実のほうが大きかった。
ベッドから降り、窓を開ける。
朝の冷たい空気が頬を撫でた。
下の公園では、小さな子供を連れた母親が歩いている。遠くで犬の鳴き声が聞こえた。
桃子は白いマグカップへコーヒーを注ぐ。
豆を挽く音。
立ち上る香り。
祖母が残した古いコーヒーミルは、少し回しにくい。
『新しいの買えば?』
と何度も言われた。
でも結局、一度も替えなかった。
キッチンへ柔らかな朝日が差し込む。
桃子は大きめのグレーのニットを着ていた。袖が少し長く、指先が半分隠れる。下は黒いルームパンツ。髪は後ろで適当にまとめただけだった。
コーヒーを持ってリビングへ戻る。
そこにある景色を、桃子はゆっくり見渡した。
グレーのソファ。
木製のローテーブル。
壁際の観葉植物。
テレビ台。
全部、もうすぐなくなる。
インターホンが鳴った。
時計を見る。
八時ちょうど。
桃子は小さく息を吐いて玄関へ向かう。
ドアを開けると、作業服姿の男性が二人立っていた。
「おはようございます。引っ越し業者です」
「お願いします」
その言葉で、現実が動き出した。
段ボールが運び込まれる。
ガムテープの音が響く。
家具に保護布が巻かれていく。
生活の匂いが少しずつ消えていく。
「こちら、本棚ごとで大丈夫ですか?」
「はい」
「食器類は梱包済みですね」
「お願いします」
桃子は淡々と答えた。
不思議なくらい落ち着いている。
作業員がソファを持ち上げた瞬間、床に長い跡が見えた。
何年もそこにあった証拠みたいな痕。
桃子はそれを見つめる。
このソファで祖母と映画を観た。
熱を出した夜、一人で毛布にくるまった。
徹と並んで笑った日もあった。
「重いですねー、これ」
作業員が苦笑する。
「すみません」
「いや、高いやつですよね?」
「長く使ってたので」
桃子は少しだけ笑った。
長く使っていた。
それだけだった。
午前十時を過ぎる頃には、部屋の半分が空になっていた。
壁の白さが妙に目立つ。
生活音が消えた空間は、どこか冷たかった。
スマートフォンが震える。
徹からだった。
『今日母さんと家具見に行くんだけど、桃子どうする?』
桃子はしばらく画面を見つめた。
もう、何を見ているのか違うのだと思う。
徹はまだ、
「結婚へ向かう途中」
にいる。
でも桃子は、もう終わっている。
返信はしなかった。
昼頃になると、梨沙がやって来た。
「うわ……」
玄関に入った瞬間、驚いた声を出す。
「本当に売るんだ」
「うん」
桃子はキッチンでペットボトルのお茶を渡した。
梨沙は部屋を見回す。
「なんか寂しいね」
「そう?」
「いや、だってここ桃子の城だったじゃん」
その言い方に、桃子は少し笑った。
「城って」
「だって完璧に桃子空間だったもん」
梨沙は靴を脱いで上がる。
白いシャツにデニムというラフな格好だった。
空になった本棚を見て、ぽつりと言った。
「徹、まだ知らないんだよね?」
「うん」
「怖」
「そうかな」
「いや怖いって。普通に」
桃子は冷蔵庫からサンドイッチを取り出した。
近所のベーカリーで買った卵サンドとハムチーズ。
二人でローテーブル代わりの段ボールに座る。
部屋にはもう椅子もない。
「ねえ」
梨沙がサンドイッチを持ったまま言う。
「悲しくない?」
桃子は少し考えた。
窓の外では風が吹いている。
カーテンだけがまだ残っていた。
「悲しいよ」
「だよね」
「でも」
桃子は卵サンドを一口食べる。
パンの甘い匂いがした。
「なんか、息しやすい」
梨沙が黙る。
桃子は部屋を見渡した。
物がなくなるたび、空気が軽くなる。
徹との未来。
義母との生活。
家族だから、という言葉。
そういうものまで一緒に運び出されていく気がした。
「私ね」
桃子は静かに言った。
「気づかなかったんだよね」
「何を?」
「ずっと、自分の家守ろうとしてた」
梨沙は何も言わなかった。
「でも徹は最初から、“みんなのもの”にするつもりだったんだなって」
窓から光が差し込む。
空っぽになった床が白く照らされる。
桃子はぼんやり思った。
もし結婚していたら。
この部屋には義母が普通に入ってきて、
「これ捨てたら?」
と言い、
徹は悪気なく、
「家族なんだから」
と笑ったのだろう。
その未来を想像した瞬間、胸の奥が冷えた。
無理だ。
本当に。
午後になると、最後の家具が運び出された。
作業員が頭を下げる。
「作業終了しました」
「ありがとうございました」
ドアが閉まる。
急に静寂が戻った。
桃子はリビングの真ん中へ立つ。
何もない。
ソファも。
テーブルも。
観葉植物も。
全部消えた。
足音がやけに響く。
それなのに、不思議だった。
苦しくない。
むしろ肺へ空気が入りやすい。
桃子は窓際まで歩く。
夕方の光が街をオレンジ色に染めていた。
祖母の声が、ふっと蘇る。
『家ってね、帰って安心できる場所じゃないと駄目なの』
桃子は小さく目を閉じた。
「ごめんね、おばあちゃん」
呟いたあと、少しだけ笑う。
「でも、ちゃんと逃げるね」
空っぽの部屋に、風が通り抜けた。