作品タイトル不明
第4話 義母という現実
第4話 義母という現実
昼休みのオフィスは、いつも少しだけ騒がしい。
コピー機の動く音。誰かの笑い声。コーヒーメーカーの蒸気音。キーボードを打つ乾いた音がフロア全体に散っている。
桃子は窓際の席で資料を閉じ、小さく目を揉んだ。
昨夜、ほとんど眠れていない。
けれど不思議と頭は冴えていた。
机の上にはコンビニで買ったサラダと雑穀パン。アイスコーヒーの氷が溶け始め、水滴が透明なカップを伝っている。
「佐藤さん、食べないんですか?」
後輩の女性が声をかけてくる。
「食べるよ。今から」
「顔色悪いですよ」
「寝不足」
そう答えると、後輩は「あー……」と苦笑いした。
「婚約すると忙しいって言いますもんね」
桃子は曖昧に笑う。
左手の指輪が視界に入った。
綺麗だと思ったはずなのに、今日はただ重い。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面を見る。
表示された名前に、桃子は一瞬だけ動きを止めた。
『佐々木 和代』
徹の母だった。
桃子は数秒だけ画面を見つめ、それから立ち上がる。
「ちょっと電話」
「あ、はい」
休憩スペースを抜け、非常階段の踊り場へ向かう。
金属製の扉を閉めると、一気に静かになった。
薄暗いコンクリートの空間に、空調の低い音だけが響いている。
桃子は小さく息を吐き、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あっ、桃子さん?』
明るい声だった。
どこか弾んでいる。
『今大丈夫?』
「はい」
『よかったぁ。お仕事中だった?』
「昼休みなので」
『そうなのねぇ』
和代は楽しそうに笑った。
その笑い方に、桃子の胸の奥が少し冷える。
『徹から聞いたわよぉ』
「……何をですか?」
『マンションのこと』
やっぱり、と思った。
和代は悪びれた様子もなく続ける。
『もう本当にびっくりしちゃった。あの子、急にそんなことするんだもの』
「そうですね」
『でも助かったのよぉ。お父さんのローン、ずっと大変だったから』
階段の窓の向こうで、風がビルの隙間を抜けていく。
桃子は何も言わなかった。
『桃子さん、怒ってる?』
「いえ」
『ほんと優しいわよねぇ、桃子さん』
その言葉に、桃子は少しだけ目を閉じた。
優しい。
徹もよくその言葉を使う。
『桃子は優しいから大丈夫』
その“大丈夫”の中には、いつも桃子の気持ちが入っていなかった。
『でも安心したわ』
「安心?」
『だって桃子さん、マンション持ってるじゃない』
桃子は黙る。
和代は当然みたいな口調で続けた。
『あそこ広いし、しばらく二人で住めばいいものね』
桃子の指先から、少しずつ温度が消えていく。
『駅近だし、会社にも便利なんでしょう?』
「……はい」
『だったら問題ないじゃない』
問題ない。
その言葉が、やけに軽かった。
桃子はコンクリートの壁へ寄りかかる。
冷たい感触が背中に伝わった。
『家族なんだから、助け合わないとねぇ』
桃子はゆっくり瞬きをする。
その瞬間、頭の中で何かが静かに繋がった。
ああ、と。
徹はこの人の価値観の中で育ったのだ。
だから自然に、
「家族だから」
と言える。
だから当然みたいに、
桃子の家へ入ってこられる。
悪意じゃない。
本気で、それが正しいと思っている。
『それにねぇ、子供できたら広いほうがいいじゃない?』
「……」
『あ、でも和室あったかしら? 赤ちゃんいると和室便利なのよぉ』
桃子は目を開けた。
コンクリートの灰色が視界に広がる。
胸の中が驚くほど静かだった。
怒りがない。
悲鳴もない。
ただ一つだけ、はっきり理解してしまった。
この人たちは、最初から桃子の境界線を見ていない。
マンションも。
生活も。
人生も。
全部、「家族共有」なのだ。
『桃子さん?』
「……そうですね」
自分でも驚くほど穏やかな声だった。
『よかったぁ。あなた本当に話わかる子ね』
和代が安心したように笑う。
『徹もね、桃子さんなら絶対理解してくれるって言ってたの』
桃子は何も答えなかった。
非常階段の小窓から、薄い冬の空が見える。
灰色の雲がゆっくり流れていた。
『あ、そうだ』
和代が思い出したように声を上げる。
『今度カーテン見に行きましょ。せっかくだし新しくしたいわよねぇ』
桃子は小さく笑った。
「ええ」
その返事をした瞬間だった。
徹が、完全に「他人」になった。
不思議なくらい静かに。
昨日まであった感情が、音もなく遠ざかっていく。
好きだったはずだ。
ちゃんと。
一緒にいて楽しかった。
笑った。
未来も考えた。
けれどもう無理だ、と桃子は思った。
この人たちは、悪気なく人生へ踏み込んでくる。
そして一度も、
「入っていい?」
と聞かない。
『桃子さん?』
「はい」
『徹にも優しくしてあげてね。あの子、ちょっと不器用だから』
桃子は窓の外を見た。
遠くのビル群が白く霞んでいる。
「……わかりました」
電話を切る。
画面が暗くなる。
非常階段は静かだった。
桃子はその場でしばらく動かなかった。
それからゆっくりスマートフォンをバッグへ戻す。
胸が妙に軽い。
たぶんもう、迷っていない。
休憩室へ戻る途中、鏡張りの壁に自分の姿が映った。
白いブラウス。細い黒のパンツ。疲れた顔。
でも目だけは妙に冷静だった。
席へ戻ると、同僚の梨沙がカップ麺を食べながら顔を上げた。
「誰?」
「徹のお母さん」
「うわ」
梨沙は露骨に嫌そうな顔をする。
「なんか言われた?」
桃子は少し考えた。
それから静かに答える。
「家族だから、だって」
梨沙は箸を止めた。
「……あー」
短い沈黙。
カップ麺の湯気だけが立ち上る。
梨沙は桃子を見て、ぽつりと言った。
「それ、もう終わってる顔してる」
桃子は否定しなかった。