作品タイトル不明
第3話 見切り
第3話 見切り
深夜一時を過ぎていた。
マンションの窓の外では、雨が静かに降っている。
街灯に照らされた雨粒が白く浮かび、時折、遠くを走る車のタイヤ音だけが湿った夜気を裂いていった。
桃子はソファに座ったまま動かなかった。
テーブルの上には、途中まで飲んだ炭酸水のグラス。気の抜けた泡が、もうほとんど揺れていない。
部屋は静かだった。
静かすぎて、自分の呼吸だけがやけに耳につく。
徹が帰ってから、もう三時間近く経っている。
玄関のドアが閉まる音を聞いたあとも、桃子は見送りに立たなかった。
徹は最後まで、少し困ったような顔をしていた。
「そんなに気にすること?」
「……気にしてるわけじゃないよ」
「じゃあなんでそんな顔してるんだよ」
「考えてるだけ」
「桃子ってたまに難しいよな」
そう言って笑った徹の顔を、桃子はまだ覚えていた。
悪意のない顔だった。
本当に。
だから苦しかった。
ソファの背にもたれ、天井を見上げる。
間接照明の柔らかなオレンジ色が、ぼんやり視界に滲んだ。
泣いているのか、疲れているのか、自分でもよくわからない。
ただ胸の奥が重い。
怒鳴りたいわけじゃない。
責めたいわけでもない。
けれど決定的に何かが終わった感覚だけが、静かに残っていた。
桃子は視線を部屋へ向ける。
祖母から譲り受けたマンション。
リビングの棚には、古い写真立てが置かれている。
祖母と二人で旅行へ行ったときの写真だ。
海辺で笑う祖母は、小柄で、いつも柔らかな匂いがした。
「桃子はちゃんと食べてる?」
が口癖で、会うたびに煮物を持たされた。
この部屋へ引っ越してきた日も、祖母は嬉しそうだった。
『ここ、風が通るわねぇ』
レースカーテンを揺らしながら、何度もそう言っていた。
春になると窓の向こうに桜が見える。
休日はコーヒーを淹れて、ソファで本を読む。
疲れて帰った夜も、この部屋だけは静かだった。
ここへ帰れば、自分に戻れた。
桃子にとって家とは、そういう場所だった。
だから徹が新居を売ったことよりも。
その決断を「当然」みたいに話したことが苦しかった。
「家族だろ?」
その言葉が、まだ耳に残っている。
家族。
その言葉の中には、きっと最初から桃子の境界線が存在していなかった。
徹は悪くないのかもしれない。
徹の母も。
きっとあの人たちは本気で、「助け合い」だと思っている。
でも。
桃子は静かに息を吐いた。
「無理だな……」
声に出した瞬間、妙に納得してしまった。
涙が一筋だけ頬を落ちる。
けれど感情が爆発することはなかった。
ただ静かに、未来が消えていた。
そのとき、テーブルの上でスマートフォンが震えた。
徹からのメッセージだった。
『怒ってる?』
少し間を置いて、また震える。
『母さん、桃子によろしくって』
桃子は画面を見つめたまま、小さく笑った。
笑ってしまうくらい、何も伝わっていない。
既読をつけず、スマートフォンを伏せる。
窓の外では、まだ雨が降っていた。
桃子はゆっくり立ち上がる。
裸足の足裏にフローリングの冷たさが伝わった。
キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。
中には昨日買ったサラダと、小さなチーズ、飲みかけの白ワイン。
夕飯を食べる気になれなくて、そのままだった。
桃子はミネラルウォーターだけを取り出し、一口飲む。
冷たい水が喉を通る。
少しだけ頭が冴えた。
そして自然に視線が部屋を巡った。
グレーのソファ。
木目のローテーブル。
観葉植物。
間接照明。
お気に入りのマグカップ。
全部、自分で選んだ。
徹の好みに合わせたものは、ほとんどない。
この空間は、桃子一人で作ってきた人生だった。
そこへ徹は当然みたいに入ってきて、
「家族だから」
と言った。
桃子はスマートフォンを手に取る。
少しだけ迷う。
けれど迷ったのは、ほんの数秒だった。
検索履歴を開く。
以前、同僚が話していた不動産会社の名前を入力する。
深夜でも問い合わせフォームは開いていた。
白い画面が静かに光る。
名前。
住所。
物件情報。
必要事項を入力していく指先は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
送信ボタンの前で一瞬だけ止まる。
本当にいいのか。
祖母の部屋を。
この場所を。
手放すのか。
窓の外で風が吹いた。
レースカーテンがふわりと揺れる。
その瞬間、祖母の声を思い出した。
『家ってね、安心して帰れる場所じゃないと駄目なのよ』
桃子は静かに目を閉じた。
そして送信ボタンを押す。
「マンション売却をお願いしたいんですが」
送信完了の表示。
それだけだった。
何か劇的な音がするわけでもない。
世界が変わるわけでもない。
けれど桃子の中では、確かに何かが終わっていた。
ソファへ戻り、深く息を吐く。
不思議と胸が少し軽い。
悲しい。
ちゃんと悲しい。
それでも。
桃子はぼんやり思った。
たぶん自分は、もう徹と結婚しない。