軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 家族だから

第2話 家族だから

桃子のマンションは、夜になると静かだった。

駅から徒歩十分。大通りから一本入っただけで、車の音は遠くなる。ベランダの前には小さな公園があり、春になると桜が見えた。

祖母が暮らしていた頃から変わらない部屋だ。

白い壁。淡いグレーのソファ。間接照明。観葉植物。キッチンには昨日買ったばかりのレモンが二つ置かれている。

桃子は帰宅すると、ヒールを脱いで小さく息を吐いた。

足が少し痛い。

今日は朝から会議続きだった。

ベージュのブラウスの袖を軽くまくり、冷蔵庫から炭酸水を取り出す。グラスへ注ぐと、細かな泡が静かに弾けた。

薬指の指輪が、照明を受けて淡く光る。

昨夜から何度も見てしまう。

まだ少し現実感がない。

そのとき、インターホンが鳴った。

モニターを見ると、徹が立っていた。

桃子はドアを開ける。

「早かったね」

「近くまで来てた」

徹はコンビニ袋を掲げた。

「ケーキ買ってきた」

「珍しい」

「婚約祝い第二弾」

明るい声。

ネイビーのパーカーにデニムというラフな格好なのに、今日はやけに機嫌が良かった。

部屋へ入ってくると、徹は慣れた様子でソファへ座る。

「やっぱ落ち着くな、この部屋」

「そう?」

「うん。なんか帰ってきた感じする」

桃子は一瞬だけ視線を止めた。

けれど何も言わず、キッチンへ向かう。

箱を開けると、小さなショートケーキが二つ入っていた。

苺の赤が妙に鮮やかだった。

「コーヒー淹れる?」

「頼む」

豆を挽く音が部屋に広がる。

いつもの匂い。

桃子は少しだけ肩の力を抜いた。

たぶん疲れているだけだ。

昨日感じた違和感も、考えすぎなのかもしれない。

「なあ」

背後から徹の声がした。

「うん?」

「報告あるって言ったじゃん」

桃子はマグカップを置いたまま振り返る。

徹はソファに深く座り、どこか得意げな顔をしていた。

「ああ、昨日の」

「実はさ」

そこで一度言葉を切る。

少し笑ってから、軽い調子で言った。

「新居、売ったから」

桃子は瞬きをした。

意味がうまく入ってこない。

「……え?」

「だから、新しく買ったマンション」

徹は悪びれた様子もなく続ける。

「売った」

部屋が急に静かになった。

冷蔵庫の低い駆動音だけが耳につく。

桃子はゆっくり聞き返した。

「どういうこと?」

「いや、親のローン残ってたじゃん」

「……うん」

「俺、ずっと気になっててさ」

徹はテーブルの上のフォークをいじりながら言う。

「定年近いのに、まだローンあるのかわいそうだなって」

桃子は立ったまま動けなかった。

昨年、二人で購入を決めた新築マンション。

駅近で、日当たりが良くて、小さなワークスペースまである部屋だった。

内覧会の日、二人で空っぽのリビングへ立ちながら、

「ここにソファ置こう」

「ダイニングテーブル大きめがいいな」

と笑い合った。

カーテンの色まで一緒に選んだ。

その部屋を。

「売った?」

「うん」

徹は軽く頷く。

「ちょうど高く売れたんだよ。今マンション価格上がってるし」

桃子の喉が乾く。

「……相談は?」

徹は少しだけ眉をひそめた。

「え?」

「私に、一言もなかったよね」

「だって契約とか全部俺名義だったし」

「そういう話じゃなくて」

声が少し低くなる。

徹は困ったように笑った。

「いやでも、家族だろ?」

桃子は黙った。

徹は続ける。

「親助けるの、そんな変?」

「変とかじゃなくて……」

「どうせ結婚したらまた家探すし」

「そういう問題じゃない」

桃子はようやくソファへ座った。

膝の上で指先を組む。

心臓だけが妙に冷静だった。

怒りが追いついていない。

「私、あの部屋好きだった」

「また買えばいいじゃん」

即答だった。

桃子はゆっくり顔を上げる。

徹は本当に悪気がない顔をしていた。

「親父さ、ずっと働いてきたのにローン残ってて。母さんも喜んでた」

「お義母さん、知ってたの?」

「そりゃ言うだろ」

「……私には?」

「だから今言ってるじゃん」

桃子は何も言えなくなった。

窓の外を電車が通り過ぎていく。

ガタン、という鈍い振動が床を伝った。

徹はケーキの箱を開けながら笑う。

「これで親も安心するしさ」

苺のショートケーキ。

白いクリーム。

甘い匂い。

なのに桃子は吐き気に近いものを感じた。

「桃子?」

「……うん」

「怒ってる?」

その聞き方に、桃子は少しだけ驚いた。

徹は本当に「なぜ怒るのかわからない」という顔をしていた。

「いや、怒るっていうか……」

言葉が見つからない。

違う。

怒りだけじゃない。

もっと根本的なものだ。

価値観。

感覚。

境界線。

「俺、間違ったことしてる?」

徹が首を傾げる。

「親だよ?」

桃子はその瞬間、ようやく理解した。

この人は、

最初から、

自分と同じ景色を見ていなかったのだと。

新居は二人で作る未来だった。

少なくとも桃子にとっては。

けれど徹にとっては違った。

あれは「家族のために使える資産」だったのだ。

「桃子?」

徹が不安そうに覗き込む。

桃子は静かに笑った。

「……ううん」

その笑顔が、自分でも驚くほど冷えていた。

コーヒーの香りが薄れている。

さっきまで温かかった部屋が、急に知らない場所みたいに感じた。

徹は気づかないまま、ケーキを口に運ぶ。

「うま」

桃子は薬指の指輪を見た。

銀色の輪が、妙に重かった。