作品タイトル不明
第1話 違和感のある幸せ
第1話 違和感のある幸せ
レストランの窓ガラスに、東京の夜景が滲んでいた。
雨上がりの街は光を反射していて、車のヘッドライトが水面みたいに揺れて見える。高層階の窓際席は少し冷えていて、桃子は膝の上でそっと指先を重ねた。
向かいに座る徹は、珍しく緊張した顔をしていた。
「そんな固くならなくても」
桃子が小さく笑うと、徹は困ったように頭をかいた。
「いや、そりゃ緊張するだろ。今日、人生変わる日だし」
黒いジャケットにネイビーのネクタイ。普段はもっとラフな服が多い男なのに、今日は髪もきちんと整えている。桃子も会社帰りに一度家へ戻り、淡いベージュのワンピースへ着替えてきた。細いプリーツが揺れるたび、祖母に「その色、似合うわね」と褒められた日のことを思い出す。
テーブルの上には食後のコーヒーと、小さなガラス皿に盛られたチョコレート。
さっきまで食べていた鴨肉のローストの香りが、まだ微かに残っている。
徹はナイフとフォークを置いたあとも、ずっと落ち着かない様子だった。
「桃子」
「うん?」
呼ばれた瞬間、空気が少し変わった。
徹がポケットから小さな箱を取り出す。
桃子は一瞬だけ目を見開いた。
「……まさか」
「うん。まさか」
箱が開く。
柔らかな照明を受けて、小さなダイヤが静かに光った。
店の奥で流れているピアノの音が急に遠くなる。
徹が笑う。
「結婚してください」
桃子は息を止めた。
その言葉を待っていなかったわけじゃない。付き合って三年。お互い三十代で、将来の話も何度もしてきた。
それでも実際に言葉になると、胸の奥がじわりと熱くなる。
「……はい」
答えた声は、自分でも驚くほど静かだった。
徹は露骨に安心した顔をして、
「よかった……」
と肩の力を抜いた。
「断られたらどうしようかと思った」
「今さら?」
「いや、桃子って時々何考えてるかわからないから」
「失礼」
二人で笑う。
徹が席を立ち、桃子の隣へ回ってくる。
左手を取られた瞬間、少しだけ体温が伝わった。
指輪がはめられる。
冷たい金属が肌に触れ、それがゆっくり自分のものになっていく感覚がした。
「綺麗……」
思わず漏れる。
「店員めちゃくちゃ相談乗ってくれた」
「徹が一人で選んだの?」
「当たり前だろ」
どこか誇らしげな顔。
桃子は指輪を眺めながら、小さく笑った。
幸せなんだと思う。
ちゃんと。
たぶん。
ワインの残り香が唇に残っている。
窓の向こうでは、観覧車がゆっくり色を変えていた。
徹が桃子の肩を抱く。
「これからは家族だな」
その言葉に、桃子は微笑んだ。
「……うん」
けれど。
ほんのわずかに、胸の奥へ小さな棘が引っかかった。
家族。
徹は昔からその言葉をよく使う。
「家族なんだから」
「家族なら普通」
「家族なら助け合うだろ」
悪い意味ではない。
徹は優しい。
実際、両親を大事にしているし、職場でも後輩の面倒見がいい。
でも時々、その「家族」という言葉が妙に重たく感じる瞬間があった。
境界線が曖昧になるような。
自分と他人の間にあるはずの扉を、自然に開けられてしまうような。
「どうした?」
徹が覗き込む。
「いや、なんでもない」
「変な顔」
「徹が変なこと言うから」
「プロポーズした男に厳しくない?」
また笑い声が重なる。
その違和感は、本当に小さかった。
きっと気のせいだと思える程度には。
店を出ると、夜風が頬に触れた。
雨の匂いがまだ残っている。
歩道は濡れていて、街灯がアスファルトに滲んでいた。
徹が自然に桃子の手を取る。
左手の薬指に触れる指輪が少しだけ重い。
「親、びっくりするだろうな」
「そうだね」
「うちの母親、絶対泣くわ」
桃子は曖昧に笑った。
徹の母・和代は、悪い人ではない。
ただ距離が近い。
以前、徹の実家へ挨拶へ行ったときも、
「もう娘みたいなものだから」
と言われながら、勝手に食器棚を開けられそうになった。
あのときも少しだけ、息苦しかった。
「式どうする?」
「まだ何も考えてない」
「新居もちゃんと決めないとな」
「そうだね」
駅までの道をゆっくり歩く。
高架下のカフェからコーヒーの香りが流れてくる。
終電前の街は賑やかなのに、桃子の胸だけ妙に静かだった。
徹は上機嫌で未来の話を続ける。
「子供とかさ、どうする?」
「気が早い」
「でも欲しい?」
「……まあ、できたら」
「だよなぁ。絶対女の子かわいい」
徹が笑う。
桃子も笑う。
ちゃんと幸せな会話のはずなのに、時々うまく呼吸ができない。
駅前の信号で足を止めたときだった。
徹が不意に言う。
「実はさ」
「うん?」
「報告があるんだ」
その声色に、桃子は顔を上げた。
徹はどこか妙に明るい顔をしていた。
子供みたいに「褒められる」と信じている顔。
嫌な予感がした。
本当に小さな、本当に微かな感覚。
けれどその瞬間、桃子の胸の奥で、さっきの棘が少しだけ深く刺さった。