作品タイトル不明
第6話 鍵の向こう側
第6話 鍵の向こう側
入籍前夜だった。
駅前は金曜の夜らしく人が多い。
居酒屋から漏れる笑い声。焼き鳥の煙。濡れたアスファルトに反射するネオン。春先の夜風はまだ少し冷たく、徹はジャケットの襟を軽く押さえた。
右手にはボストンバッグ。
左手には段ボール箱。
中には服や仕事道具、それからゲーム機まで入っている。
「重っ……」
小さく呟きながら、徹は笑った。
でも嫌な重さじゃない。
これから始まる生活の重さだと思っていた。
桃子と暮らす。
明日には正式に夫婦になる。
そう考えると、不思議と現実感がなかった。
昼間、母親から何度も電話が来ていた。
『ちゃんと挨拶しなさいよ』
『桃子さん大事にするのよ』
『あんたもようやく落ち着くのねぇ』
徹は少しうんざりしながらも、どこか嬉しかった。
三十になってようやく家庭を持つ。
親も安心しているのだろう。
駅前のコンビニへ立ち寄り、缶ビールと惣菜を買う。
桃子はたぶんワインを飲むだろう。
だからチーズも買った。
レジ袋の中で保冷剤が小さく鳴る。
マンションまでの道を歩きながら、徹はスマートフォンを開いた。
『今向かってる』
送信。
既読はつかない。
「また仕事か?」
桃子は最近、少し変だった。
会話が減った。
笑わなくなった。
でも徹は、結婚前で不安定なのだろうと思っていた。
女性は色々考えると聞くし、仕事も忙しそうだった。
新居の件だって、最初は驚いていたけれど、そのうち理解してくれたと思っている。
だって家族なのだ。
親を助けるのは当然だろう。
むしろ桃子は冷静なタイプだから、最後はちゃんと納得すると信じていた。
マンションが見えてくる。
見慣れた外観。
エントランスの明かり。
徹は少し肩を回した。
「明日からここが俺たちの家か」
声にすると、やっと実感が湧く。
エントランスを抜け、エレベーターへ乗り込む。
鏡張りの壁に、自分の姿が映った。
ネイビーのジャケットに白シャツ。仕事帰りの格好のままだ。少し疲れているが、顔は笑っていた。
七階。
電子音が鳴き、扉が開く。
静かな廊下。
カーペットが足音を吸い込む。
徹は桃子の部屋の前まで歩き、荷物を一度床へ置いた。
ポケットから合鍵を取り出す。
銀色の小さな鍵。
付き合って一年目、桃子がくれたものだった。
『なくさないでよ』
と笑っていた顔を思い出す。
「なくすわけないだろ」
徹は独り言みたいに呟き、鍵穴へ差し込んだ。
回す。
だが。
ガチャ、と鈍い音だけがした。
「……あれ?」
もう一度回す。
開かない。
徹は眉をひそめた。
「なんだ?」
差し込み直す。
回す。
だが鍵は途中で止まり、それ以上動かない。
徹は小さく笑った。
「嘘だろ」
桃子が内側からチェーンでもかけているのかと思った。
インターホンを押す。
反応なし。
もう一度押す。
静かだ。
スマートフォンを取り出し電話をかける。
呼び出し音。
出ない。
「何してんだよ……」
胸の奥に、妙なざわつきが生まれる。
そのときだった。
部屋の中から足音が聞こえた。
徹はほっと息を吐く。
「なんだよ、いるじゃん」
鍵が外れる音。
ドアがゆっくり開く。
だが。
出てきたのは、知らない男だった。
三十代くらい。
部屋着のスウェット姿で、片手にマグカップを持っている。
徹は一瞬、思考が止まった。
男のほうも驚いた顔をしている。
「……どちら様ですか?」
低い声。
徹は瞬きをした。
「え?」
「何か御用ですか?」
部屋の奥からテレビの音が聞こえる。
見知らぬ生活音。
見知らぬ匂い。
柔軟剤の香りまで違った。
徹は男の顔を見たあと、部屋番号を確認する。
間違っていない。
七〇三号室。
桃子の部屋だ。
「いや、あの……」
喉が乾く。
「ここ、佐藤桃子さんの……」
「ああ、前のオーナーさんですか?」
男は少し納得した顔をした。
「先月売却されましたよ」
徹は言葉を失った。
先月。
売却。
何を言われているのかわからない。
「……は?」
間抜けな声が漏れる。
男は困ったように笑う。
「不動産会社から聞いてません?」
徹の耳鳴りがした。
頭の奥がじわじわ熱くなる。
「いや、待ってください。ここ、桃子の……」
「今は私の部屋ですけど」
静かな返答。
徹は立ち尽くした。
意味が繋がらない。
桃子の部屋。
自分たちの家。
明日から暮らす場所。
そのはずだった。
「……嘘だろ」
男が警戒したように眉をひそめる。
「すみません、用がないなら」
ドアが閉まる。
ガチャ、と鍵の音。
それだけだった。
廊下が急に静まり返る。
徹は動けなかった。
足元に置いた段ボール。
コンビニ袋。
冷え始めた缶ビール。
全部が急に滑稽に見える。
スマートフォンを取り出す。
震える指で桃子へ電話をかける。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
長い。
ようやく繋がった。
『……もしもし』
桃子の声は静かだった。
徹は息を呑む。
「どういうことだよ」
声が掠れる。
「桃子、ここ……」
言葉がうまく出ない。
桃子は少し黙ってから、淡々と言った。
『売ったの』
徹の思考が止まる。
「……は?」
『マンション』
静かな声。
『売却したから』
徹は何も言えなかった。
廊下の照明だけが白く光っている。
その光の中で、自分だけが取り残された気がした。